10月4日(月)の朝刊に面白い記事が出ていたので、お読みになった方も多いと思う。
見出しは、「国家公務員給与、現金支給廃止へ−口座振込に統一」、というものであった。
驚いたのは、未だに現金で給与を受け取っている職場があるという事実である。
自分の場合、給与の支給が口座振込に変わったのは、30年近くも前である。
当然、ほとんどの職場が口座振込に切り替わっているものと考えていた。
息子に言わせれば、学生等へのアルバイト代の支給も、今では口座振込になっているそうである。なぜ官の世界には、こんな前近代的な「伝統」が残っていたのか?
まず、この背景を探ってみることにしたい。
一方、給与の支給方法や支給時期などは、夫や妻の立場や発言力に微妙な影響を与えるものらしい。今回は、幕末末期のサムライの給与事情を現代と比べ、サラリーマンとその妻の今昔比較を試みる。
情報源は、下の写真の新書である。幕末から明治初期にかけて、加賀藩の御算用者(経理のプロ)であったサムライの家計簿が、現代に蘇ったのである。
果たして、江戸時代の給与は何時、どんな形で支給されていたのか、また、サムライとサムライの妻達の経済力とはどんなものであったのか。
 なぜ、官の世界では現金支給が存続していたのか?
まず、国家公務員の世界では、なぜ現金支給という「伝統」が残されていたのであろうか?
新聞の解説によると、昭和25年(1950年)に施行された給与法には、「現金で支給」、という規定があり、その後の人事院規則改定で口座振込も可能となったが、各省庁に取扱いが一任されていたため、現金給付が20%も残ってしまっていたとのこと。
一見するともっともらしい理屈であるが、ちょっと待ってもらいたい。
給与法が制定された昭和25年とは、一体どういう時代であったのか?
前年にはシャープ勧告が出され、日本は戦後の荒廃の中で、深刻な不況に悩んでいた時期である。「貧乏人は麦を食え」、と言ってひんしゅくを買った大臣がいたのはこの時代である。
民間企業では給与の遅配、不払いは日常茶飯事であり、給与に換えて現物等が支給されたりしていた。
自分が勤めていた会社の当時の記録を読むと、冬には「薪炭手当」という名目で、札幌支店などでは石炭や薪が現物で支給されていたらしい。
こう見てくると、給与法にある「給与は現金で支給」という規定は、「現物では無く、現金で支給」、という意味であって、「現金の直接給付」、ということを想定していたわけではなさそうなのである。
ただ、こんな背景はお役人自体が一番良く知っていたと思われる。
多分、組合への面倒な説得が予想されたため、たった一行の「現金で支給」という規定に縛られ、営々と現金による給付を続けてきたのであろう。
「変化を嫌う官の体質」、を感じるのは筆者だけであろうか。
一方、変化が無かったという点では、徳川幕府の300年が正にそうであった。
石高に基づく給与体系が一貫して維持されていたが、実はサムライの家計は破綻寸前の状態に陥っていたらしい。
サムライの給与
それでは、時代を天保13年(1842年)、今から160年以上前の幕末末期に遡ってみよう。
この年から、加賀藩士猪山家の精密な家計簿が書き出される。
猪山家の家計の内部事情に踏み込む前に、猪山家の家族構成をざっと見ておこう。
猪山家は、信之(父上)、直之(長男)夫婦の二世帯家族である。
おばば様(信之の母上)も健在で、信之夫婦と直之夫婦の二世帯である。
また、信之夫婦には娘が一人授かっており、さらに、家来一人と下女一人が住み込みで奉公していた。都合8名の大世帯である。
この外に直之には姉が二人おり、何れも婚出しており家にはいない。
信之、直之ともに加賀藩の藩士であったから、二人の俸禄が猪山家には入ってくる。
当主の信之は知行70石、嫡子の直之の俸禄は切米(キリマイ)40俵(20石)である。
先ず、この知行や俸禄の支給方法であるが、給与は年に4回の支給であった。
天保14年の家計簿を見ると、当主の信之は、4月、6月、8月、10月に支給を受けている。
また、嫡男の直之は、信之とは異なり、4月、7月、12月(1日と27日の2回)の支給である。
興味深いのは支給方法で、信之は玄米(22石分を6月と10月)と銀(34匁を4月と12月)で支給されている。一方、直之の方は、玄米(20石分を4月と12月)と金(8両分を7月と12月)である。直之の金8両は、今でいうボーナスにあたり、直之の重要な職責に対して与えられた。
このボーナスがあるため、直之の年収は当主より上になっている。
この二人の給与の総額が、今に置き直せばどの程度の水準かに興味がわくと思う。
この本の著者は、江戸末期の賃金水準を現代に置きかえるのに大変な苦労をする。
結局、大工の手間賃を使って、160年間の時間差を埋めることになる。
面倒な換算の仕組みはともかく、結論を言えば、二人の給与は総額で1,230万円にもなる。
一人あたりでは600万ちょっと、現在では中の上の年収に相当すると思われる。
従って、二世帯を合算すると結構な収入になる。
ところが、猪山家は年収をはるかに越える借金を抱えており、家計は火の車であった。
サムライとその妻達の小遣い
なぜこれほど家計が窮迫していたかはこの本の主題であり、ここでの解説は割愛する。
結論だけを言えば、武士階級の体面を保つための出費、特に、冠婚葬祭などの交際費や家来や下女の俸給などが、家計の相当部分を占めるようになっていたのである。
この当時も、給与の支給日は、一族郎党が心から楽しみにしていた日であったらしい。
この日には、初尾(初穂、はつお)といって、家族全員にお小遣いが配られるからである。
小遣いの額は、嫡男の直之が決めていたらしいが、この小遣いの配分が実に面白い。
天保14年の、家族全員の1ヶ月平均の小遣いを、多い順に並べてみよう。
続柄は、小遣いの配分を決めた直之との関係で記述してある。
1位(父上様、当主の信之) :54,280円
2位(おばば様、当主の母上):27,590円(うち衣類代 15,380円)
3位(母上様、当主の妻) :25,540円(うち衣類代 4,620円)
4位(直之の妻) :6,460円
5位(直之本人) :5,840円
6位(直之の娘) :2,770円
7、8位(直行の姉、婚出) :1,540円(それぞれに)
この一覧表を見ると、色々な感慨に浸るはずである。
家来を連れて加賀藩に奉公する本人は、一ヶ月にたった5,840円のお小遣いしか貰っていない。しかも、自分の奥さんよりも小遣いが少ない。
また、婚出している姉二人にも小遣いが渡っている。
直之の奥様は、自分の実家からも小遣いを貰っており、それを合算するとご主人の小遣いをはるかに越える。この時代、意外にも女性の経済力は、しっかりと確立していたようなのである。
NHKの大河ドラマ「新選組」の中で、勇の奥方が斎藤一に自分の財布から、5両かそこらを渡す場面があったことを思い出される方もおられると思う。直之の場合も、「奥方から借金」、という何とも可哀相な記述が、家計簿には出て来るのである。
女性陣が衣類代を確保している一方、直之はこの年には足袋を一枚買っただけである。
どの時代にあっても、女性の衣類への執着は強いものがあったようである。
それでは、再び現代に戻ってみよう。
現代サラリーマンの小遣い
現代のサラリーマンは、いったいどのくらいの小遣いを貰っているのであろうか?
実は、バブルの絶頂期である89年当時は、1ヶ月平均で76,000円という統計がある。
この額が徐々に低下し、02年には54,900円、そして03年にはついに5万円の大台を割り込み、42,700円になったそうである。
この金額は、猪山家当主の信之とほぼ同額である。
嫡男直之の小遣いと比べれば、7倍以上という裕福さではないか。
ただ、直之は家族全員に小遣いを現金で給付し、随分感謝され喜ばれた筈である。
一方、現代サラリーマンの実態はどうか?
給与の口座振込が始まってからは、給料日の様子が以前とは一変する。
「今月の小遣いね」、と言って奥様から小遣いを「現金で支給される」風景が一般的になっている。
亭主は、「ありがとう」と言って、下手をすると頭を下げて小遣いを押しいただくのである。
小遣いの配分権と感謝の気持を奪ったという点では、口座振込という制度は罪が深い。
官の世界で口座振込が遅れた理由は、意外にもこんなところにあったのかもしれない。
先日テレビを見ていたら面白いことを言っていた。
必ずしも正確な表現ではないが、「お父さん元気指数」、と呼ばれる景気を見る指数があるそうである。「紳士服の前年対比伸び率−婦人服の前年対比伸び率」で表すらしい。 景気が悪いと真っ先に切られるのが、ご主人の衣服代だそうである。
好不況に関係なく安定的に消費されるのが婦人服なので、この数値がプラスになると景気は上向き、と読むそうなのである。最近この数値がプラスに転じたそうである。
ところで、今回引用させてもらった「武士の家計簿」の本の帯には、「歴史観が変わる、圧倒的な面白さ」、と書いてある。
確かに圧倒的に面白いが、「面白うて やがてかなしき 鵜飼いかな」、という芭蕉の俳句を思い出してしまった。
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