現存寺の山門(仁王門)

山門を入るとその裏手は“南門跡”になっていた
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国分寺の門前にあった説明板を読んでみた。
「創建当時は七堂伽藍35の僧坊があり、国内無比大道場で信仰を兼ねた行政府でもあった。その後王朝の衰微、二度の兵火にあうなど数々の秘録を遺し、藝藩主浅野家の祈祷所として代官の直支配下にあった。遺蹟は西方玉垣内にある七重塔跡で昭和11年9月国の指定を受けている。当寺に保存されている縁起巻物に依ると開祖は聖徳太子、本尊は行基菩薩の作といわれ薬師如来像(後略)」とあった。 |
山門の仁王像

鎌倉期の作品のようである
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「藩主浅野家」とあるが、すなわち江戸城内松の廊下において吉良上野介に刃傷に及び、お家取り潰しになった播州赤穂の浅野内匠頭の本家筋と思われる。大石内蔵助が「浅野大学様を以てお家再興を願い…」の場面で思い出した。
「開祖は聖徳太子」とあるが、となれば国分寺建立の詔よりもさらに150年
はさかのぼり、しかも既存の寺をもって“国分寺”としたことになるが、創建伽藍配置を時代的にどう説明できるか…。 |
南門跡

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山門をくぐると、右脇に「南門跡」の表示があった。この南門に面して、創建当時は古山陽道が東西に延びていたようである。
庭石の類ならばご覧のとおりあるのだが、礎石らしいものは塔跡以外は見ることはなかった。
さらにまっすぐ進むと池があり、4〜5bほどの階段になっている。その階段を登ると中門跡に出る。左手に鐘楼があり、正面には本堂があった。訪れたときには、本堂の大修理をしていたので、とくに撮影はしなかった。 |
中門跡

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鐘楼の脇に中門跡の表示があった。階段を昇って、ふりかえった位置からの撮影が左の画像になる。
それにしても、南門から階段を登って中門がある僧寺伽藍はめずらしい。ふつう南門と中門との間にあるとしてもは、せいぜいあって2〜3段程度である。古山陽道からも、さぞかし格好よく見えたのではないだろうか。
調査では回廊は発見されていない。階段の上には、中門だけ建っているよりも回廊があった方が、はるかに絵になる。 |
薬師堂

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そのままの位置から90度左(東)を向くと、薬師堂がある。ここには藤原様式の薬師座像が祀られている。左手トタン塀の中が、工事中の本堂(金堂跡)になる。 南門跡、中門跡の一直線上に本堂があり、金堂跡の上に現在の本堂が建てられている。
工事中のためか、金堂跡の表示は堂の脇にあった。
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金堂跡

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これまで、五堂塔が検出されている。講堂は裏の水田から検出されているが、表示がなかった。まだ確認されていないものは、中門跡からの回廊および、35の僧坊と全体の寺域が不明となっている。
今回の発掘調査は、おそらく寺域の北東角や建物群の確認であろうと思われる。今回の調査に引き続き、全容の解明が待たれる。
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発掘調査が裏手(北東位置)で

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現存寺の裏手とその東側では、大々的に発掘調査が行われていた。訪問した当日は、お盆の週のため作業はしていなかったが、近々に発掘調査説明会が開かれる予定になっており、聞いてみたい気持ちではある。
これを見て保存へ向けての力強さを感じた。そして現在、史跡公園の造園計画が進行しているようだ。 |
塔跡(東側から撮す)

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聖武天皇の玉歯を埋めたと伝えられてきた“塚”の発掘調査を、昭和7年に実施したところ、礎石などが見つかった。これにより塔跡であることが判明した。
そして、礎石の一部が移動されていたのだが、復原作業の進行とともに推定位置に埋め戻されたというとである。
調査のなかで、礎石の上面が赤く変色していたことから、火災により失ったものと考えられている。
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塔心礎と南門跡の木立を撮す

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正面の木立が南門跡あたりになって、左に中門跡へと続く。塔心礎を撮るために、生い茂ってしまった葛のツルを引っ張り寄せて、美しく撮れる状態をつくってから撮った。それにしても、枯れ木と電線が画像の邪魔になっているのが残念である。
現存寺は、寺号を金岳山常光院国分寺と称して、宗旨は真言宗御室派となっている。本尊は薬師如来坐像である。 |