備後国分寺
僧 寺 跡
2002年8月18日訪問
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昭和47年度から四次にわたる発掘調査によって、東西約180b、(南北は不明だが180b
程度あるいはそれ以上)の寺域が判明した。また、塔・金堂・講堂ならびに南門の検出によって、東塔と西に金堂が位置し、その中央の北に講堂が位置する、法起寺式の伽藍配置であることが明らかになった。ただし、画像には描いたが、中門とそこから講堂を結ぶ回廊は検出されていない。
南門が古代山陽道に面して開いていたことがわかっている。伽藍配置図に記入されている山陽道からは、時代の流れを感じさせるものがあった。
すなわち、紫色の線が古代山陽道だが、緑の近世山陽道になると衰退した僧寺の寺域を、平気で横切っているのである。“盛者必衰の理…”を感じてしまう。あるいは“色即是空”か…。
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僧寺の創建について調べてみたが、私が教科書とする「わが心の国分寺」以外に的確な資料もないので、引用させていただこう。「白鳳期に建立された前身寺院の古瓦が(中略)発見されている」、「古縁起には(中略)天平九(737)年に建立とある」ということで、説は複数あるようだが、どちらも国分寺建立の詔が発せられる以前からあったことが共通しており、転用または改修により“備後国分寺”としたことは共通しているようだ。
また、注目すべきは、奈良国立博物館にある国宝「紫紙金字金光明最勝王経」は、もとは備後国分寺にあったもので「天暦10年(956)に尾道の西国寺へ五重塔を寄進した際に納められたという」と書いてあった。
ならば、あらためて国宝「紫紙金字金光明最勝王経」を拝見しなれけば…。
国宝「紫紙金字金光明最勝王経」
奈良国立博物館ホームページ
http://www.narahaku.go.jp/meihin/syoseki/071.html
| となると、聖武天皇が詔において「金字の金光明最勝王経を書き写して、各国の塔に納めよう」と宣言しているので、理論的には聖武帝直筆のものであると思われる。博物館のホームページではとくに“聖武帝直筆”とは触れておらず、筆跡鑑定が必要である。 右の書体は、正倉院に残る聖武天皇の直筆の一部である。字体はけっこう細字で整っていて女性的な文字であるが、国宝「紫紙金字金光明最勝王経」の方はけっこう太字で、力強い字になっている。となると、違うのかもしれない。でも、本当のところは素人にはわからないというのが結論になりそうだ。
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聖武天皇の筆跡
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さてその後、鎌倉期に衰退し、1538(天文七)年に兵火で壊滅的な打撃を受けたが、1550(後天文19)年に再建。しかし1673(延宝元)年に豪雨で近くの池が決壊し洪水に遭う。そして1694(元禄七)年に再建となって現存寺の歴史へと引き継がれることになったようだ。
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南門跡
今では自動車がよく通る古山陽から、南門跡を撮したものである。かなり太い黒松の並木が、現存寺への参道になっていて、僧寺寺域を通り講堂跡を串刺しにして現存寺山門に通じている。
参道に礎石
参道に入ってすぐに礎石が転がって置いてあった。現存寺の住職が集めたようだ。
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法起寺式伽藍配置サンプル

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塔 跡
塔の表示はあっても、その位置の特定は私のような見物人には見当がつかなかった。参道からの別れ道が、塔跡を分断しているようだ。また、中央の細い道は民家の庭先に通じている。
発掘調査で塔跡は検出されたが、規模や何重の塔かなど判っていないようである。
基壇がないことは、1673(延宝元)年の洪水によって流されたからか、人がは覆したのかも不明なようだ。
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金堂跡らしい所
法起寺式伽藍配置の場合、塔の西に金堂があるので、参道を隔てた西を撮ってみた。
何とも訳のわからない風景ではある。しかし、堂塔のなかで復原できる土地があるとしたら、この金堂跡をおいて他にはない。ぜひ基壇整備をしてほしい。
竹藪手前に道路が走り、竹藪の中は水路になっている。
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講堂跡
ここでも講堂跡の表示はあっても、その位置や規模を特定することはできなかった。おまけに講堂跡を、この参道が串刺し状態で貫通しているうえ、東側は民家になっていて、長方形の講堂跡を思い浮かべることすら難しい状態であった。
この先にも礎石らしい石が参道の脇に転がっていた。全体的な残存状況は寂しい限りだが、国の史跡には指定されているようだ。
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現 存 寺
現存寺は、唐尾山医王院国分寺と号し、真言宗大覚寺派となっている。

現存国分寺の山門

薬師堂は山の際にある
尼 寺 跡
尼寺跡を探してみた。僧寺跡南門前から古山陽道を西に、およそ500b
ぐらい行くと右側に小さな祠があった。家庭ゴミの集積所の脇にあり、画像の右端にも写っていて、何とも雰囲気が出しにくい光景であるのだが…。その場所は、小山池という山陽地方ではよくある溜め池の東側に位置しており、尼寺跡の比定地にされている場所はこの辺であろうと思われた。
尼寺跡探しは、相変わらず迷って行きつ戻りつして、それらしいものを撮るわけなので、もしかしたら見当違いの祠を撮しているかもしれないのだ。自信は、はじめから持てない画像だが、説明文たけではレポートのかたちにもならないので、とりあえず画像も載せることにした。
(地元の方、また歴史家の方、正解か・間違えか、情報を戴けると嬉しいです)

まったく見当違いの画像かもしれない祠
神辺町立歴史民俗資料館
神辺(かんなべ)町は小さな城下町だった。町立歴史民俗資料館は、この町のお城である神辺城跡にあった。しかも、資料館が、白壁の櫓のかたちをして建てられており、まさに“神辺城”の装いである。
この神辺城については、資料館のホームページに以下のように書かれている。「神辺平野を一望できる黄葉山に1335年頃、朝山次郎左衛門尉景連が備後守護職に任ぜられ築城したといわれています。以来300年間備後の拠点として存在していましたが、徳川譜代の水野勝成が備後を治めるにあたり福山城を築き1622年福山城に入ったことにより神辺城は一国一城令発布もあり破却されました」とあった。

歴史民俗資料館から眺望した神辺平野
神辺町立「歴史民俗資料館」のホームページ
http://kankosv1.kankou.pref.hiroshima.jp/webindex.nsf/pages/3-P067-1
深安郡神辺町大字川北6番地の1

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