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備前国分寺
僧 寺 跡
2002年
8月18日訪問
山陽自動車道を山陽ICで降り、自動車道沿いに西に2qちょっと行くと自動車道の北側に、よく建設現場に建てられるような目立った看板が見えてくる。大々的に「史跡備前国分寺跡」と書かれた8枚の看板である。「ここまで派手にやってくれるか…」と思わず苦笑してしまったが、やはり嬉しい。
見た感じでは、塔跡周辺と中門以北の土地が確保されているようで、広々としてなだらかな南斜面の草地になっていた。跡地には礎石はほとんど残っておらず、塔心礎が一つだけがあって(最下段画像)、その上には石で造られた七重塔がのせられていた。
塔跡脇にあった看板「伽藍想定図」を手がかりに、位置関係を確かめながら歩いてみたが、どうも今ひとつ確実な位置がのみこめなかった。しかし、足元からは裏面に布目の模様がついた瓦の破片が確認でき、跡地を実感できるものだった。まさに“備前焼き”のはしりだろうか…。

中門跡あたりの位置から看板を撮った
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すでに、1974年〜75年にかけて発掘調査を実施しており、その時に左看板にある主要伽藍が確認されたようだ。
伽藍は、東塔を配する国分寺式であることが確認されたが、回廊跡が見つかっていないようだ。
寺域は、北辺が不明のままとなっているが、東西は約180b
あって築地塀がめぐらされており、東西それぞれに通用門があったことが判明している。南門跡あたりに、礎石が三個残されているというが、発見できなかった。
画像表示の順番は、伽藍南側からの順番よりも、できるだけ全景を把握できることを優先してみたので、あちらこちらにとんでいるので容赦してほしい。 |
@
東側から八幡神社方向を撮す

@の方向から八幡神社を撮すと
Cの秋桜畑も入る
左手の“金堂”はもしかしたら画面の外かもしれない
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A
南門跡から北方向を撮す

この道は僧寺があった頃はおそら参道として利用されていた道ではないだろうか
右手の“塔跡”は画面の外になる
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B
塔跡と両宮山古墳を撮す

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「まむし注意」の看板に怖くてあぜ道に踏み込めず、撮したい位置には行けなかったので、こんな写真になってしまった。
右手の山は、前方後円墳の両宮山古墳であろうと思われる。 |
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C 祠と秋桜畑
講堂の西はずれか、あるいは講堂の一部かかる位置から、北を撮したものだ。
画像のようにな小さな祠があり、絵になる写真になるかもしれないと思ったが、ご覧のとおり秋桜は最盛期を過ぎ、色あせた写真になってしまった。
しかし、背景がとてもいい。
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D 塔跡の石塔
石造の七重塔は、平成2年に山陽町の指定文化財になったものである。
創建時の塔心礎石と推定される石が下にあり、その上の七重塔は相輪の部分を失い、かわりに五輪塔の水輪(饅頭型)をのせてあり、総高は約3b
になる。初重軸部に舟形を彫り込み、四仏の容像を半円状に彫り込んであった。鎌倉時代の作と推定されている。
備前僧寺の創建からの歴史は「わが心の国分寺」によると「資料としては、天平勝宝八年(756)道場具の領下の詔に記録があるのみにすぎない」とあり、ほとんど判明していないようだ。
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そして、千年の空白の後「江戸期の安永七年(1788)に土肥経平と松本亮見解でこの地に国分両寺の存在が推定された」とある。すごい空白だが、忘れ去られていた僧寺がやっと省みられたという意味だ。時代としては中間の鎌倉時代の作と判明している石造の七重塔についても、作風から推測したものであり、誰が何のために(塔跡護持と供養はわかるが…)建てたのかもわかっていない。
全国の数ある僧寺のなかでも、備前のように創建から1200年の歴史のほとんどが不明というのもまためずらしい。そういえば備前には“国分寺”を号する現存寺もない。まことに寂しいかぎりだが、せめてもこの跡地の整備をお願いしたいものである。
尼 寺 跡

尼寺跡は、僧寺跡から南に250bの仁王堂池周辺に位置する、と考えられているというからこの辺である。しかし探し回ったが、どうしても見つけることができなかった。
池は二ヶ所あって、正面の家の向こう側と、いい形をした右山の手前に藪があるが、それが古墳でその裏側にも池があった。ただし、僧寺跡から250b
とすると、画像左端で切れるあたりになる。遠くに山陽自動車道の高架が見えている。
仕方がないので、全景を撮って“このどこかに映っている”ということにしたい。

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