筑後国分寺
現 存 寺
2003年 3月28日訪問
2003年12月27日再訪

薬師堂
桜の枝の小さな土手のすぐ向こうは壮大な筑後川
現在は解体されて跡形もない
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福岡から向かった九州自動車道を、久留米ICで降りた。そしてまずは、西に向かって現存寺を訪ねることにした。
久留米市内の中心街に入る手前を、北に向かい筑後川を渡った。そこに宮ノ陣という町があるが、ちょうど筑後川の縁にあたるところに現存寺がある。 現存寺の寺号は、護国山国分寺と称し、宗旨は天台宗になっている。
境内に置かれている板碑によると「『正平廿二年丁未九月日彫□春助』等の銘があり、室町時代の
1367年 に建立されたことが分かる」とあった。
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朱色に塗られた仁王が何ともユーモラス
僧 寺 跡
日吉神社にある僧・尼寺推定地図


推定「大官大寺式」伽藍配置
九州地方には比較的多い伽藍
筑前の伽藍を表示してあった
「わが心の国分寺」によれば、「創建期は明らかではないが、天平勝宝八年(756)に二十六ヶ国に対する灌頂の幡一具、道場の幡四十九首緋網二条の領下の詔に含まれているので、この頃に完成したと思われる。この時期、西海道ではこの他に、肥前、肥後、豊前、豊後と日向の名があって、比較的早い時期になるであろう。」とあった。
宮ノ陣にある現存寺が国分寺として再建されたのは、1339(暦応2)年だから、建武の中興の5年後となる。
したがって、創建僧寺が存続した期間、および廃絶したかも知れない期間を合わせると、およそ600年間が不明になる。創建からどの位の年月存在していたのだろうか。
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● 石碑推定位置
田んぼとあぜ道が、そのまま住宅地になったような、そんな狭い道を迷いつつ僧寺跡を探していた。すると、右画像にある「史蹟国分寺之跡」と記された石碑を発見した。その時には、とにかく日吉神社を探さないことには位置関係がつかめないので、何も考えずに画像に収めただけだった。
そののち苦労の末、ようやく日吉神社に辿り着いた。そこで僧・尼寺跡を示す看板地図をみてわかった。この石碑の位置は、推定尼寺跡のようであり、「国分寺之跡」の表示は、正確には違うことになるが、造った石碑は左画像のようには判明していなかった頃のものと思われる。
周囲は住宅地になっていて、発掘調査はとうてい無理である。
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講堂跡
日吉神社の境内に、一つだけ礎石が残されていた。位置はそのままで移動されてないという。
そこに、僧寺・尼寺跡を示す推定地図や説明の看板も建っていた。

日吉神社
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塔 跡
日吉神社と塔跡間に二車線道路が斜めに走り、おそらく金堂の一部をかすめ切っているのではないかと思われる。
それにしても、廃寺になってからできる道は伽藍配置を意識しながらつくられるが、筑後は中門前後の南北の道以外、ズタズタという感じだ。
塔跡には、表示の柱と小さな花壇があるだけだった。画像は、日吉神社側から撮している。
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中門跡
(推定)
神社から南の道路を渡って、さらに南の路地を歩いて、水路の位置関係から中門跡を割り出してみた。それらしい位置は、やや上り坂になっていて、間違いなさそうだ。
右の画像は、おそらく中門ごしに金堂院(回廊で結ばれた中)をのぞき込んだ格好になるのではないかと思われる。
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鉄筋建物背後の大木が日吉神社
金堂はその中間あたりか…
中門両側から回廊が塔を包み、金堂と
結ばれていたことを想像してみよう
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「広報くるめ」2002.10.1“ふるさと再発見”によれば、創建僧寺以降のことが明確とまではいかないが、口伝といえる程度の内容が触れられてあった。
これによると、年代には触れていないが、創建僧寺の境内に“山王宮”と呼ばれる日吉神社の前身が建立されたようだ。寺の中に神社が建立されることは、当時の神仏混淆から考えればむしろ当然のことだった。
宮司さんの話によると、1564年豊後の戦国大名・大友宗麟が筑後に出陣し、肥前の龍造寺隆信と数度にわたり戦い、この戦火により焼失したらしい。
その後、1632年に山王21社が建立されたという記録があるが、国分拾右衛門ら地元の村人によって再興されたのは、日吉神社と書かれており、軒先を貸した僧寺の方は再建されなかったわけだ。
それにしても、日吉神社を含む僧寺が1564年に焼失したとすれば、宮ノ陣の現存寺は1339年もしくは1367年には建立(再建)しており、明らかに200年近くもの間、競合・共存したことになる。やはりおかしい。とするならば、宮ノ陣の現存寺がまったくの別寺であるか、それ以前に僧寺が軒先を貸してから消滅してしまったか、言い伝えに誤りがあるのか、あるいは寺称を変えて共存していたのか、四択の謎となってしまった。今後に期待したい。
国 府 跡

筑後国府はT期からW期まで、時代とともに移動した。U期からV期への移転は火災が原因であるようだが、その他はなぜ移転するに至ったかは不明である。
画像は第T期の位置のようで、川合町でも高良川に一番近く西にあり、そこから定規を当てて真南に2qの延長線上に僧寺跡のある日吉神社となる。
その後、国府は平均500b程度ずつ西へずれていった。
川合町十三部の甘龍神社(記憶が定かでなく誤りかもしれない)という、まことに小さな公園と兼ねているような神社があった。そこに「筑後国府址」と記した石碑が建っていた。

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