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筑前国分寺

僧寺跡と現存寺

2000年3月29日 訪問
2003年3月28日 再訪

 創建当時の記録はないが、801(延暦20)年には存在していたことを示す記録があるという。 ただし「筑前国総風土記」には「鎌倉期には衰退して堂塔の礎石を残すのみ」と記されているようだ。

 左画像のように伽藍配置は、中門から金堂をつなぐ回廊を持ち、その回廊の中の東に塔を配する、“大官大寺式”の伽藍配置になる。
 金堂跡は現存寺となっていて、今日では塔跡・回廊跡の東半分と講堂跡が復元され、中門跡は道路の交差点になっていた。したがって、東半分は発掘調査も進み保存されているが、西半分は民家が建ち並び調査不能となる。
 図からは、廃寺になるとそれまで通れなかったところに近道ができる過程までがよくわかる。中門南に1本と中に3本、講堂跡前は 東西に1本と、大伽藍を横切っており、その足跡までが浮かんでくるようだ。


塔心礎石を前に金堂跡に位置する現存寺

@ 塔心礎と現存寺

 福岡空港から、車で水城の東門跡を抜けると、およそ1qほどで国分寺跡に到着する。

 創建は、801(延歴20)年には文献に記載されてはいるが、詔の発布からはすでに60年後にもなり、この国が九州の要所でもあることを考えると、もっと早期に造られたのではないだろうかと考えてしまう。


現存寺北側道路を隔て講堂位置が復元保存されている

A 講堂基壇の復元

 この画像は、上の現存寺背後を東西にかすめる道路から撮ったもだ。講堂跡には、磚を積み上げて基壇が復元されてあった。

 こうした復元は、塔跡・講堂跡の二個所だけであり、金堂跡は現存寺、中門跡は道路の中央になっている。

B 現 存 寺


現存寺である 「龍頭光山 金光明四天王護国寺」

 中門跡は道路の中央にあり、右の低い土止めは、中門から伸びる東回廊の復元になる。正面が金堂跡に位置する現存寺であり、左手前には中門・金堂間の灯籠が復元されているのが見える。


中門から伸びる回廊手前右塔跡、後ろ金堂跡

C 回廊角から塔跡

 上画像の中門跡を右に移動すると、この位置になる。
 画像手前に道路の曲がり角のように見えるのが、回廊跡の東半分だ。その先は、手すりが道路で、さらに向こうに塔跡基壇、金堂跡の現存寺が見える。そして、その背後が講堂跡になる。

筑前国分寺リンク案内
http://www1.linkclub.or.jp/~yukos/dazaifu/d0blink.htm



文化ふれあい館 (塔跡前を東に200mすすむ)


ミニサイズの筑前国分寺塔復元模型

 縮小して復元された七重塔が、文化ふれあい館脇のにある。塔下手前に灯籠と人の模型があるが、これから大きさを割り出してみてほしい。画像に電柱がなければ、ホンモノと間違えそうである。

 「文化ふれあい館」の瓦紋様は、僧寺瓦の復元になっていた。通常の民家の瓦とちがって、このようにすべての形状を復元してくれているのは嬉しい。文様は複弁八葉蓮華紋になる。

太宰府博物館 「文化ふれあい館」のホームページ
http://dazaifu.mma.co.jp/


国府跡(太宰府都府楼)


国府跡の背後には四王寺山(大野城)がひかえる


国衙の復元模型(九州歴史資料館蔵)

 太宰府国庁(都府楼)は筑前一国にとどまらず、九州全域の国府の性格を持っていたようだ。中央集権的性格もあった律令制度下にあっても、外交・文化交流の最前線で、防衛・軍事上の重要な任務もあって、おそらく中央の判断を仰ぐ時間的な余裕もなく、独自判断を下さねばならない立場にあったであろう。
 そのため、地方行政機構というよりも、外務省と防衛庁の機能をもって直接太宰府で決裁を下す重要な行政府であったと考えられる。しかもこうした性格は、律令制度が始められて以来 600年あまりもその役割は変わることなく重要であったにちがいない。


太宰府(都府楼)は筑前国にとどまらず九州の国庁だった
写真は国庁跡から南を望む 中心には朱雀大路もある


本土防衛の最前線

 白村江の戦に大敗(663年)したことにより、筑前太宰府では新羅の侵攻に備えざるを得なくなった。したがってその翌年には、太宰府と博多間の山が狭まる位置に、土塁による水城を造営し、さらに四王寺山に山城を築くなど万全の態勢をとることとなった。
 この時代、新羅への防衛と併せて国分寺造営は、日本の国家創立の威信を大陸に示す意味において、深い関連を持っている。こうした関連から、水城と大野城を紹介してみたい。


福岡空港から太宰府に行く途中に見られる水城跡


四王寺山中腹からの水城の眺め

水 城 跡

 福岡市から太宰府に行く途中に東西から山が迫り平地がいちばん細くなる所がある。そこに全長1200b・幅70bの土塁を築き、新羅軍が攻め入った際も、ここで防ごうとしたものだ。東西には二個所に門を設けた。
 また、土塁の博多側には幅60b、深さ4b以上の濠があることが近年の調査により明らかになった。
 なおこの西方には、これと同じ構造による上大利、大土居、天神山築の堤を造り、小水城とよばれた。


国府の背後の四王寺山は大野城で固めていた

四王寺山(大野城)

 さて、防衛拠点は山地にもある。水城の東側の山裾に、国府跡の裏手となる四王寺山がある。この山にも、防衛の拠点がある。
 もしも新羅軍が上陸したさい、水城で侵攻遮られた新羅軍は、四王寺山を越え、太宰府に直接攻め入ることにもなり、これを防ぐために造られたわけだ。


大野城の頂上らしいがあらゆるところに遺跡がある

 この山には、665年に百済から亡命してきた貴族によって、壮大な山城が築かれた。これを大野城と呼び、日本最古の山城となったわけである。
 そしてこの山中には、戦いの守護神でもある四天王を祀り、必勝を祈願したために、四王寺山と呼ばれるようになった。
 同一の名称は他に、伯耆国府の北や長門国府
(四王司山)近辺にも存在している。


四天王が祀られた場所は不明である
だが今でも各所に石仏が祀られている

 土塁跡や倉庫の遺跡は、四王寺山頂のみにとどまらず、山の至る所に数多く点在していた。
 とくに倉庫・建物跡は、斜面を平らに切った地形に礎石が並べてあるもの多数あり、山全体は「四王寺県民の森」と公園化されていた。
 北九州への侵攻は、その後も500年後の 1274年、1281年にも蒙古の来襲があり、大陸との緊張状態は続いた。
 いずれにせよ、防人にみられる兵役上の備えも、中央の平城京以上の緊迫感のもとにすすめらたことが窺える。
 また一方、太宰府に任ぜられた官人たちのなかからは、万葉筑紫歌壇と呼ばれる文化も興り、山上憶良や大伴旅人とその長子の大伴家持も今日にも名を残し、平安期には九州文化が花開いたことを示している。

日本三戒壇としての
太宰府清水山観世音寺



西戒壇は太宰府観世音寺の戒壇院


中央戒壇の東大寺


東戒壇は下野薬師寺跡の安国寺


観世音寺本堂

もう一つの国家鎮護

 太宰府観世音寺は、天智天皇の母斉明天皇の冥福を祈るために創建されたもので、完成したのは746(天平18)年となる。
 その後の761(天平宝字5)年には、聖武天皇が発した詔により観世音寺に戒壇院が設けられ、これが"日本三戒壇"のひとつとなった。

 その日本三戒壇とは、東国の下野薬師寺、中央戒壇の東大寺、そして太宰府観世音寺のことをいう。
 また戒壇とは、授戒・修業・祈祷等により、大僧侶を育てるための殿堂のことをいうが、その“日本三戒壇”は、あの唐招提寺を建立した鑑真和上の教えに基づき、きめて壮大なスケールのもとに構想されたものでもあった。
 すなわち、唐招提寺の金堂には三尊像が祀られており、それは右(東)から薬師如来、中央に慮遮那仏、左(西)には千手観音が鎮座している。
 鑑真和上は、この三仏を配する考え方をこの三戒壇の創建により示そうとしている。


創建当時の観世音寺伽藍

 つまり、東の下野薬師寺、中央は奈良の東大寺、そして西の筑前観世音寺を配した。こうして、それぞれの本尊を薬師如来・慮遮那仏・観世音菩薩とし、唐招提寺の三尊像(三仏)と同一にして、なんと直径1000q以上ものきわめて壮大な曼荼羅の世界を表現したわけである。
 今日のように、航空機や新幹線が整備された世の中であれば、このようなスケールの大きな曼荼羅の発想も生まれても不思議はないが、この時代の発想としてはあまりにも大きすぎて、信じがたい気持ちだ。鑑真和上はスゴイ…。


不空羂索
観世音菩薩


馬頭
観世音菩薩


十一面
観世音菩薩

 本尊の三観世音菩薩は宝物館にあった。
 中央の馬頭観世音菩薩は一丈五尺もある立像で、国分寺建立の詔にいう、丈六の釈迦三尊像を連想させた。

 宝物館は撮影禁止になっているので、購入した絵はがきを取り込んだものだ。そのため画像が悪いのでご容赦願いたい。