日向国分寺

現存寺と僧寺跡

2002年 12月28日訪問


西 都 原 古 墳 群

 「日向国分寺が西都市にある…」などということを知る以前から、西都原古墳群をいちど見てみたいという思いを強く持っていたのがこの地であった。そしてここを初めて訪れることができたのが、およそ17年前の1986年頃だったので二度目の訪問となった。
 ただし、今回の訪問のテーマは“国分寺”であるので、“国分寺オタク”の立場から言わせていただくと、古墳群ばかりがまるでゴルフ場のように整備され、あたかも七世紀頃からずっと雑草一本生えない芝生だったのかと思わせるような見事さに見えてきた。
 それにひきかえ、国分寺伽藍のなかには民家が点在し、裏寂しさが漂っているように見えるのである。さんざん迷ったすえ、やっとみつけた僧寺跡が期待どおりになっていなかったことからも、心情的にもひがみっぽくなってしまったからである。それにつけても、西都の町並は17年前とはすっかり変わり、道路は広くなり近代的な町並になってしまった。

西都市の観光案内のページ
http://www.city.saito.miyazaki.jp/kikaku/sight/index.html


伽藍配置

 国分寺跡は、西都市の中心街から西側にある台地の、住宅街と思われる所にあった。 住宅地と言っても、大都市のイメージの住宅地ではなく、緑が豊富にあるにある地域である。
 ところで左画像は、現地の看板の伽藍配置図を撮ったものだ。堂塔の配置は、南大門から僧坊まで、門・堂が一直線に並び、中門から金堂を結ぶ回廊がめぐらされ、東塔を配する典型的な国分寺伽藍となっていた。ただ日向僧寺で特徴的なことは、中門の南側から講堂の北側まで、溝が検出されたことだ。

南大門跡

 南大門跡は、正直言って行かれなかった。中門跡の南側から、いきなりごらんのとおりの竹藪で、脇から行っても民家の敷地の中に出そうで、どこが南大門跡か見当がつきそうにもなかったからだ。
 おまけに、せっかくそれらしい場所に行かれても「あんただあれ…」と、怪しまれそうで、気持ちのうえでも心細くなっていたことは確かだ。愚にもつかない画像を撮る習慣だけはついた。

中門跡

 左画像は北を向いて撮ったもの。上画像は西を向いて撮ったもの。中門跡だけには唯一、礎石が残されていた。礎石の大きさもそれほどでなく、素朴な感じがした。

金堂跡

 金堂跡画像にある三本の木の左側に立って撮ったのが左画像だ。もともと、中門跡そのものの撮影位置が東に寄ってしまったようだ。
 そしてさらに、金堂は生垣が南北の中心で、画像では東半分の金堂しか撮されていないのではないかと思われる位置のようだ。
 私が考えるのに金堂の位置は、お墓最後列から生垣のむこう小さな家にかかる所が金堂の東半分になるのではないかと推測した。

塔 跡

 北から南側をみた画像である。近くにある石碑を読んだところ、ここの土地の持ち主が、遺跡保存に協力して土地を手放した旨のことが書いてあった。
 だから、画像を見ると、このあき地に真四角く塔跡が残っていたかのように思いたいところだが、そういう偶然はないとは思う。
 とりあえずは、この辺にあったという意味で撮ってみたわけである。


木喰五智館 と 五智如来像

 1788(天明8)年この地を訪れた木喰上人は、国分寺の再興を祈願して五智如来五体を彫像し「五智堂」を建ててこれらを安置した。それからおよそ80年間は何事もなく維持されてきた。

中門跡裏の墓周辺に礎石らしい石が転がっていた
礎石かどうかは不明だが 気になって撮ってしまった

 明治初年、廃仏毀釈の波は日向国にも及んだが、とくに徹底して寺を廃絶した旧薩摩藩の近くにあった日向もそのあおりをくらい、その手はこの五智堂まで及んだ。ところが五智如来は、幸いにも一民家移し守られたために、難を逃れたわけである。
 その後、1887(明治20)年に、地元の人々によって、瓦葺き入母屋造りの「館」が建設され、五智如来像は再びこの僧寺跡の館に安置された。
 上画像の「木喰五智館」は、前述した木喰上人彫像の「五智如来像」を安置した館で、1996(平成8)年3月に新築されたものだ。


宝生如来


薬師如来


大日如来


阿弥陀如来


釈迦如来

 木喰上人は、1718(享保3)年甲斐国の生まれ。21歳の時に相模国の大山不動尊へ参詣し、そこで真言宗の高僧から教えを受けで仏門に入った。
 55歳の時に一千体彫仏を発願し、全国行脚の旅に出た。1788(天明8)年に日向の地を訪れ、地元住民に求められ、国分寺住職となった。その間、寺が火災にあったため、この五智如来五体を完成させたという。
 左から宝生如来、薬師如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来と並んでおり、いずれも素朴な彫りで人情味がありややユーモラスな顔をした仏様だった。
 五智館前の石造仁王像も何やら由緒がありそうだが、説明のなくわからなかった。

西都市の観光案内ホームページ
http://www.city.saito.miyazaki.jp/syakai/facilities/kokubu.html

宮崎県の観光案内ホームページ
http://www.city.saito.miyazaki.jp/tanhou/rekisi/06.html


尼寺跡をたずねて

 尼寺跡を探すのに、またまた苦労してしまった。町中で立ち寄ったガソリンスタンド店員のお姉さんが中学校に通っていた頃、下画像の尼寺坂(あまでらざか)という名前の坂をよく通ったと聞いたので訪れてみた。
 すると、その坂の下に白い看板
(左手前)に興味ある地名があったのだ。「尼寺地区の崖崩れ危険箇所について…」と書かれていて、“尼寺地区”の名称はまさに、正式名称“法華滅罪之寺”跡のことを指しているわけである。
 ただし尼寺跡は、この坂の上か下かもわからない。僧寺跡がこの段丘の上のおよそ300mほど南にあるので、尼寺跡が段丘の下ということはないだろう。おそらくは、上にあったのではないかという気がしているのだが。


尼寺坂の地名が残る地域 尼寺跡はこの坂の上か下かはわからない