伯耆国分寺

<いきなり余談>

 “いきなり余談”で恐縮だが、まず国の名称のことにふれてみたい。
 私も含めて、東国人としてみれば、この“伯耆”を“ホウキ”と読めるかどうか…、ということについて語ってみたいのである。私も恥ずかしながら、国分寺への関心が、全国に向けられるようになってはじめて読めるようになった。

 「新宿駅頭で100人に聞きました…“伯耆”を読めた人は、何人?」
  おそらく、その100人が若い30代以下ならば、限りなく“0%”に近い数字になるかもしれない。40歳代以上でも、歴史に関心のある人ならば、松平伊豆守
(いずのかみ)、あるいは陸奥守(むつのかみ)、伯耆守(ほうきのかみ)というような、諸大名の位を表す名称として、宮廷から戴くことからなじみもあり、ある程度は読めるかもしれないが、その国がどこにあるかまではなかなかわからないかも知れない。
 それにしても、中国地方は難しい国名がけっこうあって、美作
(みまさか)、因幡(いなば)、周防(すおう)などは読みにくい。もっとも、東国人からみればなじみがないから難しいわけで、西国人の方々ならばけっこう読めてしまうものだろうか…。

伯耆は“本土防衛最前線”のひとつ

 白村江の戦に大敗(663年)したことにより、朝廷は新羅の侵攻に備え筑前太宰府に水城を造り、都を飛鳥京から大津京に移し東国に逃げやすくするなどして万全を期した。
 ここ伯耆でも事態は深刻だったようで、四王寺山に砦を築き新羅軍に備え山頂にはその遺跡が残されている。なるほど伯耆・因幡・出雲の各国府などは、いずれも日本海から一山隔てた内陸の、ワンクッションおいた場所に位置している。すなわち海からの守りのために、こうした所に国府を置いたのではないかとの憶測もしたくなるのだ。
 ところで、新羅の侵攻に備えて砦を置いた
四王寺山だが、なんと、同じ名称の山が筑前太宰府にもある。それも、筑前国府の背後(北側)にあり、同じ名称が単なる偶然の一致とは私にはとうてい思えないのである。しかも、双方とも対新羅の本土防衛最前線である。とにかく気になったので調べてみた。


 四王寺山頂は画像から切れているが、山頂から
6q先が日本海になる。法華寺畑遺跡から僧寺跡、
国府跡付近は眺望のよい台地だ。(倉吉博物館蔵)

 太宰府の四王寺山には、665年に百済から亡命した貴族により、日本最古の山城である大野城が築かれ本土防衛に備えた。
 その砦の中に、国分寺建立の原典となった「金光明最勝王経」にいう「この経を読み広める王があれば四天王が常に守護し…」の教えにより四天王
(多聞天・持国天・増長天・広目天)を山頂に祀り必勝祈願したのが「四王寺山」であることがわかった。そしてこれが、伯耆でも実践されていたわけである。
 そんな緊張状態は、いったいいつまで続いたのだろうか。あまり確信はないが、東大寺開眼供養の際に国名を「日本」と名乗ったわけだが、それまでの100年間は 続いたように思える。
(実際は200年後にも記録があった:出雲のページ参照)

 さて、伯耆国府の場所は、倉吉市の西の小鴨川と国府川を渡ると、その一帯が遺跡に包まれた格好になる。現存寺は手前右側の低地にあったが、三跡地はすべて台地に位置していた。
 国府には716(霊亀2)年に伯耆守として山上憶良が赴任し、5年足らず勤めたことが知られている。ただし残念なことに、伯耆の地で詠んだ歌は見つかっていないようだ。多忙を極めていて、しかも精神的に余裕がなかったから詠めなかったのだろうか。もしも詠んだ歌が沢山あったら今ごろはこの地に“万葉歴史館”が造られていたかもしれない。ちょっと残念である。その後、憶良は726(神亀3)年に筑前守として異動することになるが、考えてみると筑前太宰府も伯耆も、先ほどから述べているとおり、どちらも当時は国土防衛の最前線であるから、もしかしたら、憶良さんはその道の権威者だったのかも…。


僧 寺 跡

2002年8月17日訪問

 昭和45年から始まった発掘調査でより明確となったのは、東西181.9b、南北が160メートルの寺域となっていて、その周囲には土塁と溝がめぐらされていたようである。
 伽藍は、南門・(中門は検出されず)・金堂・講堂が南北に一直線に並び、塔跡が南門から東からやや北に位置する国分寺伽藍となるが、それにしても不思議なことがいっぱいある伽藍だ。疑問を列挙してみよう。
 @ 金堂と講堂の間がおよそ10bと近すぎること。
 A 中門および僧坊が検出されていないこと。
 B 回廊の北辺が金堂・講堂の中間に位置しどちらにも付いていないこと。

 なぜこうなっているのかとても不思議である。これまで見てきた伽藍と同じようなところはいっぱいあるのだが、ちょっとした部分が理解できないのだ。

 画像は、国分寺史跡公園の配置を示す地図を撮って加工したものだ。周囲を若干トリミングしたが、殆どは網羅していると思う。

 まず南門から北に進み、金堂跡から塔跡方向に回廊を見た。僧寺が台地で平地を見下ろす“良き処”であったことがよくわかる。
 そのあとは塔跡と五輪の塔が集められている場所を撮した。
 画像の緑に塗った部分は、立ち入れないような薮になっていて、自然がいっぱいすぎる場所だった。南門を撮影していたら、ヤブ蚊に刺され潰して血が出たほどだった。

@ 南門跡

 南門を撮るには薮に入るしかなく、クモの巣に悩まされた。また、因幡尼寺跡ではヘビに出会して全身総毛立つ思いをしたので、恐る恐るの突入だった。
 背後の南側は、6bほどの階段になっており、僧寺跡で見上げるほどの南門階段はめずらしい。

A 回廊跡手前から

 再び薮コギをして中央の参道に進んだ。左は薮なので見えにくいが、両側に回廊跡の膨らみが見える。
 ふつうは回廊の中央に中門があるはずだが検出されず、ほんとうに無かったのだろうか。中央の基壇は金堂跡になる。

B 金堂と講堂跡

 金堂と講堂の間隔が10bしかなくとても近い。おそらく多くの僧寺跡では最も近い位置かもしれない。
 金堂・講堂ともに基壇が復原されているが、礎石は持ち去られてなかった。また、講堂の背後に僧坊跡があるのがふつうだが、検出されなかった。

C 金堂跡から東南方向

 金堂跡に立ち、東南方向を眺めてみた。
 左手前には東方建物跡が検出され、その先に回廊跡が左右に伸びている。
 遠景には、倉吉の平野が広がるのが見える。その手前の枯れ枝の根本に、塔跡基壇が見えるだろうか。

D 塔跡から北西方向

 今度は逆に、塔跡から金堂跡方向を撮した。塔礎石は復元した石のようだ。
 塔の一辺長が 13.6bで、塔高は45bあったようだ。
この高さのためか、五重か七重かは分かっていない。

E 五輪塔群

 講堂の西側に、おびただしい数の五輪塔が並べられていた。調べによると、鎌倉時代のものらしいが、これほどの数は何のためにあるのだろうか。発掘調査で掘り出したものを並べたのか、もともとここにあったのかは分からない。


法華寺畑遺跡

 なぜ「法華寺畑遺跡」などという、曖昧な表題(史跡名称)になったのかということから説明しよう。
 この遺跡は、僧寺跡の北100b以内にあり、地元ではこの土地を古くから「法華寺畑」とよんでいた。したがって、当然“尼寺跡”が埋まっていると誰もが思っていたようである。そして昭和46年および48年の調査により、その全容が明らかになってきた。ところが尼寺跡と信じられていたものが、尼寺跡の特徴である回廊跡や礎石、あるいは礎石が持ち去られていたとしても、礎石下の敷石すらも出土しなかったようである。

 それどころか掘っ建て柱の建物跡が、左画像のような配置で次々と発見され、およそ尼寺跡の伽藍配置とはほど遠く、むしろ官衙(役所) 跡と思える特徴を持っていたという。
 しかし、国府跡は僧寺跡の西方に歴然として存在し、ここが何であったのか、話は宙に浮いてしまった。こうして「法華寺畑遺跡」という曖昧な名称のままで、史跡の指定を受けるに至った。

@ 南門跡

 掘っ建て柱を再現して南門位置を示し、等間隔で広がる柱は板塀跡をあらわしている。
 そして、門の中央には新羅軍の侵攻に備え砦を造った、四王寺山が見える。その向こう側 6q先は日本海だ。

A 建物跡

 ここが仮に、尼寺跡ならば「金堂および講堂」と説明し、国庁跡なら「正殿と後殿」と説明するわけだが、この遺跡の用途がわからないのでは“建物跡”と書くしかなく、困ってしまう。コメントのしようがない。

B 西門跡復原

 とにかくすばらしい門だ。寺院建築のような派手さはなく、質素だが重厚かつ威厳ある建築に目を見張った。
 これはどう見ても尼寺跡には見えないけれど、それならば“伯耆尼寺”はどこに行ってしまったのだろうか。かえって謎が深まってしまった。


国 府 跡

 僧寺跡から西に約300b 国府跡がある。あたりは台地で畑地が広がっているが、国府跡はご覧のとおりセイタカアワダチソウの雑草畑で、踏み込めない状態だった。
 国府のなかには国庁があり、東西273b 南北227b の広さで、中心には正殿・後殿があったとされている。
 また、この周囲からは倉庫等も次々と発見されており、判明する度に国府の規模が拡大しているようだ。廃絶は10世紀代だから平安中期だろうか。
 じつにのどかな風景だ。背後に四王寺山を見晴るかし、その当時は、山上憶良国守が日々気に病みつつこの山を往復したであろう。
 そして新羅侵攻を想定した攻略を思いめぐらし心を痛めていたに違いない。やはり、歌を詠む心の余裕はなかったのが真相かもしれない。

 とにかく、僧寺跡の伽藍配置の三つの謎といい、“法華寺畑遺跡”の用途の謎と、尼寺跡はどこに行ってしまったのかという謎も加わり、知るほどに謎が増える伯耆だった。


現 存 寺

 創建僧寺は、948(天暦2)年には失火に遭ったが、なお存続し鎌倉期においても寺勢は衰えずに存続したようだ。その後「天正年間の戦火などにより壊滅した」とあった。この天正年間の記述は、因幡国分寺にあった縁起とまったく同じである。調べてみると、「1580(天正8)年、羽柴秀吉が播磨を平定し、因幡・伯耆に進む」とあったので、この時に壊滅的な打撃を被ったのではないかと考えられる。
 そしておよそ100年の後、1693(元禄6)年だから将軍綱吉の時代に、僧寺跡からおよそ700b 東にあった定光寺をもって国分寺と改め、今日まで受け継がれたわけである。
 現存寺は、寺号を護国山国分寺と号し、宗旨は曹洞宗となっている。

 それにしても秀吉さん、国分寺を壊した人のなかではトップに躍り出たかもしれない。知っているだけでも紀伊、但馬、因幡、伯耆の四ヶ寺におよぶ。これまでの立て役者であった関東の暴れん坊の平将門、四国の国分寺のうち三ヶ寺を焼いた長曽我部元親も、だんだん霞んできたようだ。


盆踊りのための提灯と櫓が 準備されてあった現存寺本堂