<ちょっと余談>
 因幡の国は、子どもの頃からなじみになっていた話、古事記「因幡の白兎」の舞台である。だから、難しい“因幡”も“イナバ”と読めたのは、かなり若いうち(中高生?)で読めていた記憶がある。ただし、それ以前に、イナバを“稲葉”と書くのかと思い込んだ時代も…、どうもあったような記憶がしている。

 さて、本論に入ろう。
 758(天平宝字2)年、大伴家持が国守として因幡国府に赴任した。こうしたことから、国府町には立派な「因幡万葉歴史館」が建てられていた。大伴氏は、その6年前まで越中国府に仕えていたこともあり、越中国府(富山県高岡市)にも立派な万葉歴史館が建てられている。だから“家持の館”は二つを数えるわけだが、たいしたものである。

「因幡万葉歴史館」のホームページ
http://www.infosakyu.ne.jp/sakyu/organiza/mannyou/index.htm

 それにしても家持さんは、越中には746年から5年間、国司つまり国に仕える役人として派遣され、どこかで6年間仕えた後に、因幡には国守つまり国長官として赴任したわけてある。因幡へは昇任人事異動か、単なる転任かはわからないが、とにかくキャリア組のなかでも大変な出世にちがいない。
 家持氏の話はその程度にしておくが、有名な氏に比べ、因幡国分寺跡の方は、現在に至っては“民家の下か土の中”ということで、堂塔跡地の標識すらなく、まことに寂しい限りであった。ただし、田んぼに囲まれた集落そのものが僧寺跡地という、象徴的な残存形態もまたひとつの残り方かもしれないとも感じた。


因幡国分寺                                                          

現 存 寺

2002年 8月16日訪問

 その“国分寺集落”ともいうべき中の一隅に、現存寺がある。上画像は、現存寺の庭に集められた創建僧寺の礎石群である。
 画像で見えるものを数えただけでも10個はあるが、実際は画面の右塔の下や左画面外にもっとあってかなりの数になる。画像は南の方向を撮しており、創建僧寺の七重塔が建っていたとすると、画像の左外になるだろう。

 現在お寺を守っている女性のお話では、私が教科書としている「わが心の国分寺」の著者であるところの玉手英四郎氏が、「度々この地を訪れてくださる」とのことであった。そして、石塔手前の枝垂桜の苗木を寄進されたそうである。私は、まったく同じ地ばかりを氏が訪ね歩いた後に訪れているわけだが、はじめて氏の足跡を見た感じがした。

本堂正面の軒の下に掲げられている額 

上画像の右端に集められた五輪の塔

 現存寺は鳥取藩主が池田氏の時代1674(延宝2)年に、興禅寺の活禅和尚が僧寺の哀穐穎を悲しみ、現在の国分寺を再興した。そののち、現在の本堂は明治29年に建てられたものである。
 余談だが、山陰地方の屋根瓦は、画像のように煉瓦色をし上薬を塗り、光沢のあるものが多い。私すなわち東国人にとっては、何ともお国柄の違いを感じて目についた。
 寺号は、最勝山国分寺と称し、宗旨は黄檗宗である。本尊は行基菩薩の作と伝えられる薬師如来の木像である。

僧 寺 跡


 現存寺の縁起碑には、以下のように書かれていた。
 昭和47年の発掘調査により、塔は一辺が8.1bあることがわかり、塔礎石であろうと思われる石は、現在境内におかれているらしい(どれかはわからい…)。

 また「平安末期仏教の衰微戦国の乱世、元亀・天正(1570〜90年代)の時代に至り、不幸にして兵火に逢い衰退の一途をたどる」とある。
 家に帰ってからよく調べてみたら「1580(天正8)年、羽柴秀吉が播磨を平定し因幡・伯耆に進む」とあった。もしかしたら、因幡僧寺は秀吉さんが焼いたのかもしれないということがわかった。

 左画像は、本堂の鴨居に額に入れて飾ってあった、創建国分寺の伽藍配置図と現状を重ねて書いた図である。許可を得て撮らせていただいた貴重なものだ。色は私が画像処理の際に、現存寺を赤、創建伽藍を黄色で塗ってみた。

 寺域は東西が215bあり、南北は不明であるらしい。寺領墾田壱千町をいただいていたようだ。伽藍配置は、一目瞭然のとおり、南から南門、中門、そして回廊が金堂に巡らされ、その北側に講堂、そして僧坊が建ち並んでいた、西塔を配する典型的な国分寺伽藍である。塔は調査により、七重塔だったことが判明している。
 旧寺域の周囲はすべて田んぼだが、旧寺域内はしっかりと固められた土地のためか、ほとんどが集落となっていた。これでは伽藍の復原は不可能だろうが、周囲の田んぼさえ残してくれれば、創建当時の伽藍を想像するにも不可能ではないと思う。

南門跡前から

 画像真ん中の十字路は、明らかに南門跡とわかった。それは十字路より北側は、60pほど高く、左は畑になっていた。参道と思われる道路も南門▼で膨らんでいる。
 想像してほしい。正面の家
▼が中門、右倉庫と左ビニールハウスの向こうに回廊が広がって、高い木の枝▼は金堂の屋根になる。

南から塔跡

 画像手前の田んぼの十字路から、左に10bほど歩いてみた。
 畑は道路より60pほど高く、明らかに寺域は周囲より盛り土をしていたと思った。
 伽藍復原図等の位置関係から、勝手に塔心を決めてみた。専門家ではないので、あてにはならない。現存寺お堂の屋根が見える。

金堂の森と神社

 南門前から撮った画像の金堂の森には、細男神社がある。ここが金堂跡ということになる。画像は東を向いて撮っている。
 金堂跡については神社で部分的に確保されたものの、講堂、僧坊跡は私有地の下にあり、十分な発掘調査がされていないようだ。

合成の創建伽藍

 ついに、とてもくだらないことに挑戦してしまった。ご覧戴いている皆さんからは、きっと笑われるだろうと思いつつ作った。
 すべての位置は、まさしくその場所であるのだが…。画像の張り付け方がヘタすぎるナァと我ながら思っている。せめて、雰囲気と気持ちだけでも、なんとか伝わってほしいのだが…。


尼 寺 跡

 まずは、この画像の位置関係を知ってほしい。もう一つ上にある、恥ずかしい僧寺の「合成の創建伽藍」の画像から、そのまま右へ90度、すなわち東に向いてほしい。そして、目を開くとこの画像になるわけである。
 尼寺は、この山の手前の集落、すなわち「法花寺」の地名である集落一帯に該当するのではないかと思われる。
 私の好き勝手な想像なのでどうかはわからないが、右から3本目の電柱から同じ高さの5本目まであったかもしれない。そして右の電柱から南門、中門、画像中央の道の先に金堂、茶色の倉庫左端あたりが講堂となっていたのだろうか。朱色の伽藍が広がりは、まさしく想像に値する風景である。


ここに踏み込んだ瞬間に見た大きなシマヘビに 思わず総毛立ってしまった

 右から3本目の電柱の山裾にあった、尼寺跡を示す表示板と“礎石”である。表示板によれば「多くの礎石は鳥取市の常任寺建立の際運び出され、この石だけが残された。その後、手水鉢に加工され福田氏の庭に置かれていたが、さらに町外に持ち出され、近年やっとのことで法花寺に戻されたということである。」と書いてあった。どの石がそれなのか、よくわからない。
 しかしまだ、尼寺跡は発掘調査で確認されたわけではない。「わが心の国分寺」によると「現在山陰道で史跡指定を受けずに残されている遺跡は因幡国分寺のみとなった」と書かれていたが、僧寺・尼寺ともにこの状態はさみしい。


国 府 跡

 昭和47〜52年に本格的な発掘調査が行われ、その結果、正殿跡、後殿跡、南門跡等が発見され、国庁全体が確認されるに至ったようだ。国庁域は東西約150b、南北約213bあり、全体は32000平方bのうち、7000平方bを町が買い上げ、歴史公園としたということだった。


南から見たところの復元模型(因幡万葉歴史館蔵)


南から見た正殿跡と その後ろに後殿跡の柱も見えるが
掘っ建て柱の並び方の違いでわかるだろうか


国府町商工会のホームページ
http://www.kokufu.or.jp/shoukai/history.htm