和泉国分寺
現存寺
2003年8月24日訪問
大阪の市街から南に30qほど走ったであろうか、風景は様変わりをし、田んぼと森林に囲まれた農村の風景へと変わる。しかしよく見ると、所々に新しい住宅が密集して建ち始めた感じのする地域でもある。えらく南北に細長い和泉市の南部山岳地帯にほど近い丘陵地帯に、古くからある集落の中に現存寺があった。
立ち寄った時は、ちょうどお祭りの準備で多忙な最中だったが、お寺の奥様がお茶まで出していただきながら、話の相手をして下さった。沿革などについてひとしきり伺った後、ご本尊に礼拝を済ませると「ご参拝のしるしに…」と、お線香の入った箱を差し出され、感謝の至りで、いただいてしまった。

江戸期の「国分村近辺絵図」によると、現在地を中心とした広大な範囲に「国分寺伽藍跡」と記され、その「跡」と書かれているところをみると、この時代にはすでに、創建当時の雄大荘厳なる威容は失われていたものと思われる。
創建は839(承和6)年5月3日、安楽寺を以て国分寺としたもようである。聖武天皇の国分寺造立の詔勅(741年)がだされてから遅れること、100年にも手が届こうとする年月である。

境内にある和泉僧寺跡碑
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なぜそのように遅れたかは、この和泉国の独立に関わる問題が生じていたからのようだ。もともとは河内国の領内であったが、757(天平宝字元)年に大鳥・和泉・日根の三郡が河内国より独立し「和泉国」となったのである。 独立したからには国としての体裁を整える必要性があったわけで、国分寺創建は欠くことの出来ない条件であったわけだ。しかし、造営許可を中央に申し出ても、即刻に許可が出るわけではなかったようだ。ルーズなお役所仕事なのか、それとも何らかの理由により引き延ばされたのか、それから80年もの後に、ようやく安楽寺を以て国分寺とするということになったようである。
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本堂に掛かる寺号の額
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その後、およそ500年間の経緯については、記録がなく不明である。
鎌倉幕府が倒され、建武の中興となってから僅か3年後の、1337(延元2)年南北朝の戦いはますます激しくなった。
この地では「国分寺前において再三合戦があり…」と「岸和田氏文書」は伝えている。また、現存寺の過去帳の一隅に「天正二(1574)年焼失す」と書かれてあった。まさに織田信長の勢い盛んなる頃である。いずれにせよ、残念ながら、こうして衰退の途を辿ったようである。 |
和泉国分現存寺には「和泉名所絵図」が伝えられているが、これによると光明皇后誕生の地という伝説が記されている。定かかどうかは二の次にして、なかなか夢のある話ともなっているようだ。

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