出雲国分寺

余談ではないのだが…、「八雲」って何だ?


八雲立つ風土記の丘歴史資料館
http://www2.pref.shimane.jp/fudoki/

 出雲の国のまほろばというべき地域には「八雲立つ風土記の丘公園」があり、出雲国のすべての歴史を物語る土地と、歴史資料館を兼ね備えいていた。
 さすがは邪馬台国大和国かあたりと政権を競った国の誇りは今も脈打っているようだ。とにかく、奈良の飛鳥京や筑前太宰府と肩を並べ、日本の歴史の始まりには欠かせない地域であり、これを大切にしているという実感を持った。

 まず、私が興味を持ったのは「八雲立つ風土記の丘」の八雲とは。また、日本好きで哲学者・文学者の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)八雲とは…。どうにも、出雲では八雲が気になってしまった。何で八雲なのかを、調べてみることにした。


資料館の入口左側には古墳もあった
 竪穴式住居復原の後方 小高い林が古墳だ

 「出雲風土記」に「出雲となづくるゆえは 八束水臣津野命のりたまいしく 八雲立つとのりたまいきかれ 八雲立つ出雲という」という一節があるという。また「古事記」には「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」と書かれているという。だから「その意味は」と言われても分からないし、「それがどうしたのか」と言われても、さっぱり理解できないので、答えられるわけもない。申し訳ないが“八雲”の意味は、わからないままにしておくことにするしかないようだ。
 ただし、今思いついた。しかるに、民謡三階節でおなじみの「米山さんから雲が出た…」の唄い出しにある山は、新潟県は柏崎の近くにある霊峰、米山(海抜993b)である。たいして高くない山だが、日本海は季節の変わり目から冬にかけては、まことに天気が不安定である。そこに共通の“
”がありそうである。
 そこで思い浮かんだのが、島根半島の山々である。東から 
高尾山 白髪山 忠山 三坂山 御的山 朝日山 大船山 摺木山 青木平 高尾山 全部で十山になってしまった。私の目論見では八山にかかる雲と、こう言いたかったわけであるのだが…。それにしても、高尾山が両端に二山もある。東京にも高尾山があって、私もよくトレーニングで登る山だ。ということで、この十山のうちのどれか目立たない二山は消すことにして、その山々にかかる雲が八雲であるといい、しかもそれらの山から雲が出るから“出雲”ということではないのか…、と思う。東国人の勝手な解釈で強引ではあるが、この場では結論とさせていただきたい。

 さて、世にいう旧暦の十月は“神無月”(かんなづき)である。ところが出雲の国では、出雲大社に全国の神々が集まってしまうから“神在月”(かみありづき)と称するようである。だから、特別の地なのであるが、それがどうして“出雲大社”であるのかもわかもらない。
 神々が集まるなら、天照大神が祀られている伊勢神宮あたりに集まってもいいではないのか…。そんなことを言うと、また大和の国と出雲の国が戦争になってしまっても困るのだが。まあ、そこは大和の側が譲歩していただいて、天照大神の方から神無月には出雲に行くのだろうか…。考えれば考えるほど神様の世界はわからなくなってしまう。
 とにかく出雲は、考えるほどに、謎また謎の多い地域である。

 その謎にこたえてくれるかどうかはわからないが、島根県が日本の国家成立に欠かすことのできない地域であることの程度は、つかめるであろうと思われるホームページを紹介しておこう。

島根県観光協会のホームページ
http://www.city.matsue.shimane.jp/kankou/jp/history/index.htm

 ほとんど不勉強の程を曝してしまったプロローグであった。さて、本論の国分寺の話題に入ろう。
 この出雲の地は、聖武天皇の国分寺建立の詔が出される以前から仏教文化が華開き733(天平5)年には、すでに11もの古代寺院が存在していたという。まさに大和の飛鳥京並みの数であるだろう。ところが、人物には話題となるような注目すべき人が出てこない。たとえば、中臣鎌足や中大兄皇子、そしてあの時代の抵抗勢力と言おうか、反主流派にされた物部氏や蘇我入鹿などのような人間像が、ここ出雲では浮かび上がってこないのだ。銅鐸や銅剣はいっぱい出土するのだが、これらからでは、歴史ドラマをイメージすることは不可能であるところが寂しい。人物を浮かび上がらせるだけの資料があれば、出雲にも人間ドラマが再現できるのだが…。


                            

僧 寺 跡

2002年8月17日訪問

 資料がないので、またまた私の教科書「わが心の国分寺」から重要な部分を引用させていただきたい。「天平11年頃(739)に出雲国司として赴任した石川年足は諸国の国分寺の造営に貢献した人物である。貞観9年(867)に四天王像を下付し、新羅国の侵略に備えて、国分寺僧の修法が命じられた際には出雲国分寺の名が記録されている」とあった。
 ここ出雲国でも、新羅の侵攻への緊張感が、かなりの間続いていたことがわかる。すなわち、
白村江の戦に大敗(663年)したのち、約80年後の741年に国分寺建立の詔が出されるわけだが、その時にはすでに石川年足は国司として出雲にいたわけなので、国分寺は数年以内に造営されたことが推測できる。注目すべきは、白村江の大敗から約200年後の867年にも、依然として新羅侵攻の可能性とその緊張感は消えなかったことを、この引用文が示していることである。つまり出雲僧寺でも、創建から100年以上もこうした緊張感とその対応に追われていたことは間違いないようだ。

 さて、僧寺跡の見学記録に話題を移そう。
 礎石がみごとに残されており、東側の塔と回廊を含み、南門から僧坊までの一画が史跡として、かなり細長いが土地が確保されていた。

「八雲立つ風土記の丘歴史資料館」
「なるほど考古学」のページ
http://www2.pref.shimane.jp/fudoki/naruhodo/index.html


 縦長四角の部分、創建時の寺域のおよそ3分の1程度だろうか。ただし、一番大切な部分が残されていた。

 それぞれの堂塔の礎石群がみごとに残されており、東側の塔と回廊を含み、南門から僧坊までの一画が史跡として確保されていた。左の地図と右の想像図を比較して見てほしい。伽藍配置は、東塔を配する国分寺式であるが、回廊のめぐらし方が中門から講堂へと結ぶ例は少なく、現在わかっているだけでも信濃僧寺と、講堂の背後を結ぶ武蔵僧寺の二例だけである。

南門跡

 手前道路を隔てると車の進入を防ぐだめに、杭と綱を張ってあるが、その向こう側にとても小さな南門基壇が見える。左には出雲国分寺を示す石柱が見える。
 中央に伸びる通路は瓦敷きとなって発掘された通路で、僧坊跡まで続いていた。そのつぎの段が中門跡と回廊跡になる。

金堂跡

 この階段も創建当時のものか…、そんなはずはないと思う。ただし、「南門から南方へ石を敷きつめた4町余の道が、天平古道と称され…」(「わが心の国分寺」より)とあり、伽藍内の瓦敷き通路も確認しており、かなり真実味を帯びている。おそらく復原基壇であろうと思われるのだが…。

金堂跡を西側から

 みごとに残っている礎石群には興奮してしまった。8×4=32個だったろうか、すべての礎石が定められたいちにあるのだ。しかも、繰形突起の形状、すなわち出ほぞというが、この細工がすべての礎石に施されてあった。
 ほぞ(へんにと書く:こんなやさしい字が漢字コードにない)

金堂跡から南を

 南門跡からまっすぐ南に伸びる舗装道路だが、これが天平古道といい、国史跡指定を受けているという。
 何の変哲もない農道のようだが、南門跡真正面の直線道路の舗装の下には、天平時代の石畳が敷き詰めてあるという。
 この道をまっすぐに進み、突き当たりを右に曲がると国庁跡の方向になる。時間があったら歩いてみたかったのだが…。

金堂跡から回廊・塔

 金堂跡から東南を向き、回廊と塔跡を撮したつもりだったが、ただの草はらになってしまった。
 右手前から左先の草原が回廊跡になる。また、中央の菱形になっている一段高い草はらが塔跡基壇になる。

金堂跡から講堂跡

 画像でわかるとおり、敷石で中央の通路が造られてあった。参道から伽藍の中までまっすぐな道は続いていたわけで、こうした例もありそうだが意外とめずらしいものである。

講堂跡

 ここもしっかりとした復原(?)基壇があり、僧坊まですべて整っていた。ところが、金堂・講堂・僧坊のうちで、なぜかいちばん草が生えていて、ほとんど残されている礎石が隠れてしまうほどだった。
 よく整備されているが、やはり国分寺跡史跡の地面は芝生にしてほしい。贅沢な要求だろうか。

 下の画像は、西側から東向きに講堂を撮ったものである。ビニールハウスの手前に回廊の土壇がつながっているのだが、遠くてあまりはっきりはわからないかもしれない。ここにも、8×5=40個だったか記憶は確かではないが、礎石が残されていた。

僧坊跡

 僧坊跡では、10×5=50個の礎石が敷き詰められていた。講堂のようには草が生えていないのでよくわかる。
 右端に講堂跡の基壇が見えるが、さらにその上には回廊跡の草が生えた盛り土も見えている。
 尼寺跡は左丘陵の際にあるということはわかっており、僧寺跡を見学したあとに、自動車道の陸橋の向こう側と手前も行きつ戻りつして探したが、祠や神社に立ち寄って調べてみたがわからず、ついにあきらめた。

寺域最後方より南を見る

 僧坊の背後から伽藍をすべて視界に入れて、南方向を撮ったものである。
 こうして全体をとおして見てみると、金堂・講堂・僧坊のほとんどの礎石が残され、中央通路の瓦敷きや東半分の回廊跡、そして南門・中門・塔跡がしっかりと残されていることがわかるが、これだけ残されている僧寺跡もめずらしい。


国 庁 跡

 僧寺跡の「寺域最後方より南を見る」(上画像)を見てほしい。僧寺参道天平古道をまっすぐ行くと小高い丘陵があるが、その手前を右に折れ、民家の二階屋の陰あたりが国府跡になる。

 国庁の広さは約168b四方あって、その半分が史跡公園になっている感じがした。
 まずは、三箇所から撮った画像を見ていただきたい。 

六所神社

 国庁跡のすぐそばにあって、総社とも呼ばれているようだ。
 総社は国司などが参拝した神社であるようだ。出雲の神がすべてここに集めらるというが、出雲大社の神までこの小さな神社に来てしまうのだろうか。
 本殿には、江戸時代中期のものと思われる壁画(県指定)があるという。

 その本殿が、画像中央に写っている。どうも出雲大社のような建て方の影響があるのか、高床式になっていて、なかなかおもしろい。

 手前の赤い柱が、国庁の正殿になるのだろうかとにかく建物跡である。実際のところ、ただぼんやりと眺めただけで、よく見てこなかったのだ。

中央から北方を眺める

 中央に通路がのび、両側に建物跡がある。いずれも国分寺跡とは違い、掘っ建て柱である。その後ろの木立が史跡公園の境界となっている。
 出雲国分寺跡は画像右外になってしまうが、小高い山裾の麓にある。


出雲国風土記
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