河内国分寺
僧寺塔跡
2003年8月23日訪問
近鉄大阪線河内国分駅から東へ2q足らずの所に、塔跡のみが残っている。国分東小学校前の道を、東方向に約300b進むという位置関係が、もっともわかりやすいと思う。
周辺はぶどう畑に囲まれ、大和川を望む絶好の眺望恵まれてはいる。しかし、寺域が北斜面も珍しいが、これほどの急傾斜地にある国分寺跡はおそらくここだけだろう。
発掘調査により、塔の西に南大門・中門・金堂・講堂があり、東側に寺院の付属施設があったと説明板に書かれていたが、これほどの傾斜地では伽藍配置をイメージするには難しすぎる感がある。
北斜面だから、北から南門(実質北門)、中門、金堂、講堂と並んでいたのだろうか。東塔を配する国分寺式と「わが心の国分寺」には書いてあったので、そのようなことになるが…。もっとも書物の方も若干の疑いを残していた。
緩やかな北斜面ならば、甲斐僧寺のように高い方から南門、中門…という具合にっても不思議はないが、南門から急な階段を下りながら中門、金堂へと進むことは、もっと考えられないことである。
それにしても、地形の関係から伽藍配置を無視した建て方にせざるを得ないということで、実際に建てていたと仮定するとすごいことになる。伽藍配置が実際に崩れ始めたのは、密教系の山岳信仰あたりからではないかと思われるが、河内僧寺はその最先端を進んでいたことになる。大和川を挟んだ大和路からは、さぞかし素晴らしい光景を見せていたのではないかと思いが馳せる。
出土品から、鎌倉期までは存続していたようだが、南北朝の戦乱において廃絶したようである。

河内僧寺跡を示す木柱の碑
|

塔跡の復元基壇と礎石(南西から北東方向を撮す)
|
昭和45年に発掘調査が行われ、発掘した塔跡からは基壇の一辺が19.2b 高さ1.6bあって、基壇の様式は、周囲に凝灰岩の切石を積んだ壇上積み基壇とよばれるものとなっていた。基壇上面には凝灰岩の切石を敷きつめ、臍のでた敷石を配している。
また、塔の基壇と中門の一部が確認され、奈良時代の瓦と共に、それ以前の瓦も出土している。
そこから推察し、国分寺そのものは白鳳時代(7世紀末)の寺を改築・整備したのではないかとも考えられている。 |

塔跡の発掘調査の模様を撮す(南東から北西方向と思われる)
|

塔跡の復元基壇と礎石(南から北西方向を撮す)
河内国はもとは和泉国を含んでいたが、757(天平宝字元)年に大鳥・和泉・日根の三郡が河内国より独立し分かれていった。
近くには鳥坂寺・土師寺などの寺院群や、河内国府など著名な古代の遺跡が密集している。大和川をはさんだ北東の山には、大和と河内を結ぶ古代の主要路「龍田越(立田超)」がとおり、古くは桜・紅葉の名所としても知られていた。
雁がねの 来鳴きしなへに 韓衣
立田の山は もみち始めたり(万葉集)
尼
寺 跡 ?
僧寺の塔跡(僧寺跡)を探している時に、どうやら塔跡の西方800b
あたりの位置に迷い込んでいたようである。すなわち尼寺跡周辺をさまよっていたことになる。墓石屋さんで店番をしている女性の方に、僧寺跡の所在位置を訪ねたところ「国分寺ならば、その辺の畑から出た(出土した)石が、そこに祀ってあるよ」と答えたのである。その祠をよくよく覗いて見ると、下画像に見られる右端の板きれに「国分寺地蔵尊」と墨書してあった。
もしかしたら、尼寺跡から出土したモノかも知れないと思い、一応画像に収めておいた。
あとで確かめたわけだが、尼寺跡は確かにあのあたりであったようだが、跡地の位置関係まで突き止めることは出来なかった。

近くの畑から出土した
国分寺地蔵尊

|