大隅国分寺                                                          

僧 寺 跡

2002年12月27日訪問

何も残されていないのも歴史の足跡

 説明してくださったS氏に感謝
 この大隅のページを掲載するについて、もしもこの方とお会いできなければ、不明な点ばかりで“ないないずくし”の惨めなページとなるところだった。

 その方とは、市の職員のようで専門は考古学・歴史学らしく、おそらく教育委員会あたりで関連するお仕事をされている方であると思われる氏である。
 隼人城の展望台で、女性職員の方に質問をしたところ、「専門家を呼びましょう」ということで、すぐに下の事務所へ携帯電話をかけて呼び出してくれた。これに応じ、ご多忙中ななかをすぐ来ていただいて、懇切丁寧に説明してくださったのが氏だったのである。
(ご本人の承諾を得ていないので匿名で…)
 私が「国分寺巡りをしている」旨を伝えると、ここ大隅国分寺は不明な点が多く、諸国より調査が遅れていることを大変恐縮しつつ語ってくれた。その理由としては、以下の二つの大きな歴史的事実が障害となったことがわかった。
@ 島津義久が町並・道路の造成をやり直す
 1600年、関ヶ原の戦いで西軍として参戦した島津義久は、敗北し敵陣中央の突破を試みて命カラガラ逃げ帰ったが1604年(慶長9年)に、ここ国分に隠居処を構えることになった。これにあたり、大隅の国府だったそれまでの国分の町並・道路等すべてを造成し直し、舞鶴城・隼人城を築き、今日にも至る町並を造ったという。この造成により、それ以前の歴史が覆されてしまったため、発掘調査が困難を極める結果となったという。
A 廃仏毀釈が最も徹底された旧薩摩藩領内
 明治新政府がおし進めた廃仏毀釈は、時の政府の“与党”でもある旧薩摩藩の領内のためか、鹿児島県一帯は全国で最も徹底して実施された地域だという。寺の建物はもちろん破壊しつくし、仏像、古文書等もみな焼却されたという。
 そう言われれば、たしかに鹿児島県には名刹・古刹がないことに気がついた。歴史学者の梅原猛氏のいう「廃仏毀釈がなければ文化財は三倍は存在していた」との論を思い出した。とにかく、手がかりとなる資料を殆ど失ったわけで、私は思わず中国の“文化大革命”を想起してしまった。
 それでも川内市の薩摩国分寺は、伽藍の調査・保存がかなり進められ、大隅国分寺では“町並再造成”により、一層ハンディが大きくなったようだ。

 ということで「ないものはない。でもこれも歴史なのだから、国分寺の発掘・調査もそこから始めなければならないんです」と、若い氏は歴史の解明への不屈の意欲を見せてくれたことは、力強かった。


白い建物の手前が僧寺跡になる 北(右手)を山にし南(左手)には遠く錦江湾と桜島を絶好の場所だ

  徳川幕府は薩摩藩に対し、濠と天守閣を持つ城の造成を禁じたため、山城を背にした屋敷を舞鶴城とした(鹿児島市内の鶴丸城も同じ)。そして背後の山を詰城としたのが隼人城であるが、画像の撮影位置が隼人城(展望台)になる。
 その舞鶴城は、現在では市立国分小学校と隣の県立国分高校になっている。また、その周囲は武家屋敷として整備されたため、僧寺跡の礎石などは石垣として転用されたため覆され、伽藍配置はおろか正確な位置さえつかめていない。町並については今日でも、小規模ながら碁盤の目のようになっていた。


真南には錦江湾と桜島が見晴るかすことができる



左木立の下に「大隅国分寺跡」碑  石造多重塔は中央車のその後ろの車の後方にある
後ろの建物はもと図書館の青年会議所だ  この下に僧寺がどのようにあったのだろうか

 正確な場所がつかめていないままの“国分寺跡”としての唯一のシンボルである。この画像を撮影中に、背後では小型ショベルカーが唸りをあげながら地均し作業をしていたが、氏によると「昨日まで発掘調査をして、今日は埋め戻しの作業をしているところ」だったという。その成果の程は語らなかったが、継続すれば今後が楽しみだ。
 これまで若干の瓦が出土しており、僧寺のあった場所には間違いないが、礎石はなく民家も迫り発掘は困難を極め、伽藍が特定できていない。


僧寺跡から出土の平瓦


僧寺跡から出土の丸宇瓦 複弁八葉蓮華紋

 しかし、出土瓦はしっかりと国分寺の存在を示しているかのように思える。すなわち、筑前国府“太宰府”の宇丸瓦である複弁八葉蓮華文様もまったく瓜二つの出土が、それを裏づけているようである。説明して下さった氏によれば、筑前から薩摩・大隅のルートがあったようで、こうした技術者の動きによって伝わったと説いて下さった。


筑前国府瓦文様の復原(文化ふれあい館)


出土宇瓦の文様(郷土館のチケットから)

 さて、創建はついては不明であるが、これについて「わが心の国分寺」では、「天保勝宝八年(756)の道場具領下の詔に漏れており、当時は未完成で…(中略)。出土瓦から推定する完成期は、奈良末期から平安初期初期と見られ…」というから、国分寺建立の詔から40〜50年後ということになる。
 その後の変遷はまったく不明で、話題としては、いきなり下画像の石造多層塔が造られた1141(康治元)年となってしまう。


大隅国分寺跡の石造多層塔

 もとより多層塔は奇数層が常識だが、これは六重になっており偶数層は不可解なものである。ただし、下から五層目の石材の質が異なるので、あるいは五重塔の可能性もある。
 
石塔の裏に「康治元年壬戌十一月六日」と彫られており、僧寺の再興を祈願し建てられたらしい。
 ところで、薩摩国分寺跡
(川内市内)の北西裏でも同じ石造多層塔を見つけた。
      
(左下画像)
 薩摩の塔は崩れており、石を載せられない状態にあるようだが、やはり六重塔であるのは偶然の一致だろうか。私には“六重塔”そのものの存在もあるのではないかとも思えてきた。


薩摩国分寺跡裏の石造多層塔

 大隅の多層塔は屋根が薄く大陸的な様式を感じるが、薩摩の多層塔からは屋根の厚みと反りに日本的な特徴が感じられるのだが…。


大隅国分寺跡の石造仁王像

 その後1562(文久2)年、僧寺の地に“国分郷学問所”が建てられたと国分市立郷土館に記録があったが、規模・用途については不明である。そしてその後、前述のとおり、国分の町並再造成が行われ、武家屋敷となったため礎石は殆ど失われて、現在では礎石と思われる石が1つ残されたという。
 現在はもと国分図書館だった建物が、青年会議所の事務所として使用されていて、敷地は駐車場になっている。そのため、石塔の前には車が停めてあり、撮影にはとても苦労した。


国府跡を訪ねる

 国分市内に“府中”という町名が見られることから、氏に国衙跡は発見されているか否かを訪ねてみた。すると「国衙は発見されていないが、国分寺跡からまっすぐ西に1qほど行き、市立向花小学校の脇に祓戸(はらいど)神社という大隅の国の総社がある」と教えてくれた。 ということで、さっそく訪ねてみることにした。


大隅国府の総社であり一宮でもある祓戸神社

 この社にはイザナギ・イザナミの両神のほか瀬織津姫神・気吹主神・速秋津姫神・速佐順良姫神がお祀りしてあり、また天満天神社も合祀されている。
 祓戸神社という社号は明治5年以降のことで、それ以前は守公神宮守君神宮という社号であった。
 この社の歴史は古いが、その創建の年代は詳らかではない。しかし、大隅の国が日向の国から分離したのは西暦713(和銅6)年で、1290年ほど前のことであるがその後、数十年を経て大隅の国の総社として建立されたのがこの社の起源であると言われている。
 守公神宮が大隅国庁の総社であったことは、今から700年ほど前に書かれたもので、今でも調書家に残っている。文書によれば、30人ほどの宮ざむらい交代で奉仕していた記録されているので、その格式の高かったことがわかる。島津藩政時代になっても、この地方の尊信を得ていたが、歴史は流れ時は移り万象移り変わり、今はわれら府中の氏神として鎮座されている。

 平成11年7月吉日   祓戸神社氏子一同(「祓戸神社由緒」より転載)

祓戸神社ホームページ
http://www.genbu.net/data/oosumi/haraido_title.htm