【いきなり余談】
隠岐島のこと
隠岐は、東側の丸い島を島後(どうご)とよび、西側の三つの島からなる島群を島前(どうぜん)と言っている。いずれも創生については火山島だか有史以来の噴火はなく、さしたる温泉もない感じなので、すでに火山としての生気は失っているようである。それにしても、たしかに島前などは、地図を一見すれば中央火口丘と外輪山が海に沈みかけている感じには見えてくる。
島後の歴史は、私が受けた印象だが、おもに律令国家の誕生から1200年あたりまでの500年間は活発で、国府・総社・一宮・国分僧寺・尼寺などの造成は、推定も含めすべて島後にその跡を残している。そして平安後期あたりから、歴史の中心は島前に移り、とくに後鳥羽上皇・後醍醐天皇に関わるおもな史蹟は島前の方に多く残っているという印象を受けた。
さて、まずは現存国分寺と僧寺跡、尼寺跡、国府等々の話題となるが、これはすべて島後の話題であり、西郷港付近に集中しているのである。
今回の隠岐訪問については、ある旅行社の“隠岐の歴史探訪ツアー”の一員として行くことにしたのだ。それは、自分で勝手に行くよりも安価で乗り継ぎが簡便なこともあるが、目玉は何よりも“隠岐歴史の専門家”が案内してくれるということなので、私は国分寺めぐりも59ヶ寺目にしてはじめてツアーを利用した。
隠岐の玄関口 天然の良港である西郷港入り口

湾に入ると左右に入江が広がる 正面がフェリー埠頭
隠岐国分寺
現存寺と僧寺跡
2003年8月3〜5日訪問
創建からの歴史については、建武中興以前の記録がまったくなく、殆どわかっていない。
拝観のさい現存寺からいただいたパンフレットによれば「隠岐国分寺も、出雲、岩見、両国分寺と並び聖武天皇勅願所として建立された島内第一の伽藍で、金堂、三重塔、四天王寺、大門、中門、山王二十一社の鎮守、大乗坊、大楽坊、大蔵坊、岸本坊など七堂伽藍が…」とあった。

隠岐国分寺入り口
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だだしこの記述からは、聖武天皇のことと伽藍の説明文がつながっているために、あたかも僧寺の創建の時代を指しているように見えるが、伽藍の説明部分に限り、いつの時代を指しているかは不明である。
また、このような大伽藍と書いてあっても、創建時の伽藍配置は発掘調査もされていないため、まったく不明である。
したがって、塔も「三重塔」と記されてはいるが、いつの時代の三重塔かもわからない。 |

現存寺の山門
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もっとも、延喜式記録による寺料は五千束で、比較すれば淡路国分寺と同程度である。したがって島という事情も考えれば、それほど大きな伽藍とは思えないし、仮に創建から三重塔だとしても納得はできる。
ただし入り口から山門、そして本堂、その裏の御在所跡の礎石などあって、現存寺のなかではかなり広い境内であると感じたことは確かである。余談だが、現存国分寺のなかで、境内への拝観料を支払うのも隠岐がはじめてだ。 |

現存寺の本堂
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“隠岐”というと、後鳥羽上皇や後醍醐天皇が鎌倉幕府に背き、配流された所として、多くの人に知られた地であろう。実際に隠岐に行ってみると、歴史を観光のセールスポイントとして、これに取り組む意気込みも感じた。 ただし、平安中期以前の歴史についてはあまり明らかではなく、この国とほぼ類似する対馬や壱岐、そして近隣の地域である出雲・伯耆の方が、かなり明らかになっていると感じた。これについては、また後ほどふれたい。
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後醍醐天皇の御在所跡とされる建物跡(正面から)
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後醍醐天皇御在所跡
本堂の裏に礎石があるというので行ってみたら、後醍醐天皇の“御在所跡”であるという。御在所ならば島前には黒木行御所跡もある。どっちが本当なのかといえば、両者とも譲らず、いわば後醍醐天皇の奪いあいになっている。
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後醍醐天皇の御在所跡とされる建物の礎石(裏面から)
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後醍醐天皇が隠岐に流されたのは、1332年のことである。そして僅か1年で島を抜け出し、京都に戻って鎌倉幕府を倒すと同時に建武の中興を進めた。 その僅か1年あまりの居場所が島後の国分寺か、それとも島前の黒木御所だったかは、私にも分からない。この件についても、後ほどふれたい。
黒木御在所跡
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東南アジアや大陸の色彩が色濃く感じられる舞の面
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十二葉単弁蓮華文とでも言うか
山陰道には単弁系が多い
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隠岐騒動と過激な廃仏毀釈
隠岐はもともと、後鳥羽上皇・後醍醐天皇などが配流された歴史的な経過があるだけに、幕末においても尊皇攘夷とする機運が高いところであった。また重ねて、江戸末期に凶作により農民一揆が続発する世情でもあった。
こうした情勢を背景に、1868(慶応3)年3月、一の宮水若酢神社宮司忌部正弘を総代として神官・庄屋などの呼びかけのもと、三千の農民が武装決起した。これにより、松江藩代官を無血のうちに追い出し、ここに隠岐自治政府を樹立させた。
しかし松江藩は200名の兵を送り、島の自治政府はわずか81日間のうちに、14名の犠牲者と100名を超える負傷者・拘束・逃亡者を島民から出しつつ、再び藩が島を制圧したのである。
ところが今度は、この争いに対して、鳥取藩・長州藩・薩摩藩等が介入したことによって、松江藩は隠岐制圧から手を引かざるを得なくなり、隠岐から撤退した。こうして同年6月には、再び自治政府が復活したのである。そして、11月には松江藩から取り上げられた隠岐は鳥取藩に移管され、明治2年には“隠岐県”が成立するに至ったのである。

その当時 廃仏毀釈により破壊され
寺の裏に捨てられていた四天王像
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これに勢いづいた島民たちは、かつて松江藩と結託していたと思われる寺や僧侶に対し、徹底的な攻撃を加えたのである。
こうした動きは、明治2年の春から夏あたりが最も激しかったといわれている。襲撃は、寺院・仏像の破壊はもとより、田畑の没収に至り、島内の寺院についてはことごとく消え失せたという。
見方によるならば、松江藩に対する島民の恨みが、すべて廃仏毀釈に向けられたとも思えてくる。これが世にいう「隠岐騒動」の顛末になっている。 |
今日にしてみれば、どちらにしても空しい戦いであったが、封建制を打ち破る民衆の蜂起という見方もあるだろうし、明治新政府の手のひらの上で踊らされていたとも考えられる。素人の私が、歴史的な評価をすべき事柄ではないことは重々承知してはいるが、隠岐にある寺院の遺恨と隠岐騒動への評価の違いについて、今なお糸を引いているようで、素人の私にもそのように感じられたのである。
尼寺跡
尼寺跡は、僧寺からやや南寄りの東方の台地に、跡地を示す看板だけが立てられていた。昭和47年3月31日には、島根県の史跡指定を受けている。
ちょっと不思議に思ったのは、僧寺跡(現存寺)との位置関係についてである。詳細な地図が手元にあるわけでもないので方角にはあまり自信はないが、尼寺の位置が東方約500b
にあって、それも少し南に張り出しているように思えることと、僧寺跡より高台に位置していることである。ふつう、尼寺の方が僧寺より南にあったり高い位置にあることは考えられないので、ちょっと解せない気持ちもあった。
下の画像は、尼寺跡を示す表示板よりやや右に移したところから、僧寺跡方向を見た画像である。
僧寺跡は対面の丘陵の下方のため見えない位置にある。

正面の木立の向こう側 山裾の下方の見えない位置が僧寺(現存寺)になる
下画像は、尼寺跡を示す表示板から尼寺跡と思われる一帯を撮したものである。どうも「本当に尼寺跡か?」と思わせる発掘調査の結果がある。
説明によれば、昭和44〜45年の発掘調査により、隠岐国分尼寺跡が発見された。隠岐島後教育委員会による発掘調査では、奈良・平安時代と考えられる建物跡6棟などが確認された。掘立建物跡の柱穴は直径1.3bと大型で、このうち3×7間の建物跡は金堂跡で、3×5間の建物跡は講堂、2×1間の建物跡は中門であると推定された。また寺の範囲は109b四方と推定されている、とあった。
ここ隠岐と同じく、尼寺跡らしき所から掘立建物跡が発掘された国が、同じ山陰地方の伯耆の跡にある。その発掘調査からの結論からも、役所跡かも知れないとの疑念を抱きつつ、やや“尼寺跡説”に傾いていたような印象が強かった。
隠岐についても、発掘調査はまだ部分的でもあり、すべてが明らかではないので、これらの建物跡が隠岐国周吉郡の役所跡である可能性もあるとしているところまで伯耆の国と一致していた。


発掘調査の模様を示す
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左画像は、発掘調査の模様を示す説明板を撮したもの。東西・南北にトレンチを引っ張っているのがわかる。画像下部の地図にある小さな赤い部分が現在地になる。
その現在地の道路の南側に、お坊さんのお墓であろうと思われる、ナスを逆さにしたような形の墓石が二基と、土台だけが一並んであった。
もしかしたら、尼寺跡と関連しているかも知れないと思い撮ってみた。

尼寺跡と関連があるのか僧侶のお墓?
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隠岐の歴史の“正確な説”と施設がほしい
“隠岐”というと、後鳥羽上皇や後醍醐天皇が鎌倉幕府に背き、配流された島として多くの人に知られているところである。実際に隠岐に行ってみると、観光に力を入れて、これをセールスポイントに取り組もうとする意気込みも感じた。
しかし歴史については、平安中期以前になるとあまり明らかではなく、隠岐と条件が類似する対馬や壱岐と比較しても、また似た歴史を共有する出雲や伯耆の国々とも比べてみても、歴史そのものの調査・研究が遅れているという印象を持った。
また前述でも触れたが、後醍醐天皇が黒木御所にいたのか、あるいは国分寺だったのかについても明らかにされていない。重ねれば、“隠岐騒動”および明治初期の最も過激な廃仏毀釈についても、今もその評価が分かれることを感じさせるところもあり、その利害を引きずっているのではないかと思わせるところなどは、生臭さを感じさせるものがあった。
私の勝手な思い入れかも知れなかったが“歴史の島隠岐”として、今後もこれをセールスポイントとして印象づけるのならば、こうした問題を超越し、歴史的事実の調査・研究への努力を怠らないでほしいと強く感じるものである。
そしてそのうえで、総合的な歴史資料館を造り堂々と隠岐の歴史を明らかにし、隠岐を訪れる歴史愛好家の期待に応えてもらいたいと感じている。
歴史を語って下さった、ツアーの案内の方々に感謝したい。
国府の足跡を訪ねる
隠岐総社 玉若酢たまわかす神社

隠岐総社の玉若酢神社本殿
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隠岐駅鈴
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天然記念物の大杉
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国分寺跡から南500b程になるだろうか、隠岐総社となる玉若酢神社がある。その資料館には、隠岐国駅鈴が展示されていた。
646年(大化2)年正月、孝徳天皇が発せられた改新の詔により、各街道の駅すなわち厩牧には「鈴」を供与することを定めた。こうして賜ったものだという。いわば駅伝原点の鈴である。すると1300年以上も経っているシロモノかも…。
左画像は、天然記念物に指定されている、杉の大木である。樹齢900年とも言われるが「いゃいゃ、切ってみなけりゃ分からないですよ…」と案内の方。もしかしたら、千年以上あるかも知れないというのだ。
お祭りの時は、馬の鞍に神様を乗せてその手綱を持つ人と馬とがこの坂道を駆け上がる。怪我も付きものだという。
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隠岐一宮 水若酢みずわかす神社

隠岐一宮としての地位のある神社であるとともに、隠岐騒動の総代となった宮司、忌部正弘氏のいたところである。造りが出雲大社とよく似ていると感じたのだが、もっと興味を持ったことは、境内に古墳跡があったことである。
下画像のように、すでに上部と左部分の石や盛り土などは覆され、まるで石室が雨ざらしの状態となってはいたが、棺が置かれていた位置が容易に想像できるものであった。

おそらく枯れ葉の上を縦に棺が置かれていた格好だろう
「国府」名を残す 国府尾こうのお神社
尼寺跡の説明板には、隠岐国府跡は、下西の尼寺原遺跡(現在の隠岐高校敷地)にあると書かれていたが、かなり探しまわった後だったので、ツアーから別行動をとらせていただいた私には、もう時間がなくなっていた。したがって隠岐高校までは行かれず残念だった。それにつけても、国府の足跡はいくつか残っていた。その一部を紹介しよう。
国府尾(くんだ)城である。西郷港の町並からほぼ東北に外れる中世の山城である。
もう一つは、国府尾(こうのお)神社である。ここも町並からやや西北に外れる丘の上にあった。急な階段を登らなければならないが、途中には平らに均した土地もあり、礎石らしき石もあるにはあったが土地は狭く、急な斜面からも国衙があったとは考えにくかった。
結局、わからずしまいになってしまったが、
西郷の港は「西郷」と呼ばれる以前は何と呼ばれていたのか、考えをそこまで進展させて質問してみたが、期待した答えは返ってこなかった。

神社入り口 右は鳥居の額
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神社の社(やしろ) 右は社名の幟
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これより余談
後鳥羽上皇御火葬塚

入り口の鍵を開ける村上家48代目御当主
鎌倉幕府が成立して30年も経っていない1221年、後鳥羽上皇は、源実朝の死をきっかけに起こした鎌倉幕府倒幕(承久の乱)の失敗によって、隠岐へ配流された。そして19年後(60歳)に、念願していた再度の登京は叶わずしてこの地にて果てた。その御在所跡礎石は島前の海士町に今も残されている。またその手前には、天皇には希となる火葬によるお墓が上画像のように、現在も守られていた。
鎌倉幕府より後鳥羽上皇の世話をするよう命ぜられたのは、島の豪族の村上氏であった。幕府の命は「島を抜けさせてはならない、ご不自由があってはならない」としており、これを受けた村上氏は手厚くもてなした。
御塚入り口の鍵を開けている方は、現在の村上家の48代目御当主である。現代に至っても、後鳥羽上皇のお墓をお守りしているという。

後鳥羽上皇の御在所跡
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画像は、後鳥羽上皇の御在所跡である。上画像の火葬塚から、右手に坂を登り詰めたすぐ突き当たりになる。 われこそは
新島守よ隠岐の海の
荒き波風 こころして吹け
このように書いてあったかどうかは定かではないが、何かの歌を読んだ石碑が建っていた。
(後鳥羽上皇の歌ではないようだ)
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黒木御在所跡
村上家の48代目御当主に質問をしてみた。
質問「ご説明にあったように、村上家は鎌倉幕府から『後鳥羽上皇を手厚く持てなせ、ただし島から出すな』と仰せつかったわけだが、100年後には後醍醐天皇の島抜けについては、村上家はどのような態度をとったのか?」すると、つぎのように答えて下さった。
「後醍醐天皇の島抜けについては、もちろん相談があった。これに応えて船も人足も村上家が調達して揃えた」
質問「島抜けのほう助による幕府からのおとがめは? もっとも鎌倉幕府は衰退して、それどころでは…」
「そのとおりだ。幕府の勢力は衰え、ここまで及ぶことはなかった。おそらく、事を起こすにしても、その辺の政治情勢を睨んだうえでのことと考えられる」という説明がかえってきた。なるほど…。風雲急をつげる今日の政治情勢からすると、まだまだゆっくりとしている時代では…。

島前のある黒木御在所跡地
先に書いた同じ内容の説明を、再び書くしかない。
すなわち、後醍醐天皇が隠岐に流されたのは1332年のことである。そして、わずか1年で島を抜け京都に戻り、そして鎌倉幕府が倒れ建武の中興となる。
その僅か1年余りの居場所が、島後の国分寺かそれとも島前の黒木御所だったのかは、私にもよく分からない。
しかし勘ぐるならば、双方とも観光の利害が絡む問題でもあり、歴史の真実を明らかにできないでいるのではないか…、そんな気がしてならない。
隠岐の絶景 国賀海岸

奇岩や絶景が立ち並ぶ国賀海岸 300bの絶壁もある
「新羅来襲」の危機感は?
〜 本土防衛の最前線
〜
私は隠岐に行ったら必ず質問してみようと思っていたことがあった。
それは、白村江の戦いに敗北(663年)してから以来
100年間、いや所によっては200年
もの長期にも及ぶ「新羅来襲」の危機感と緊張感は、各国分寺をめぐるなかでは、とくに筑前太宰府をはじめとして因幡・伯耆・出雲の各国などにそれを強く感じていた。ましてや、孤島であるここ隠岐国では、その危機感は極限状態に達していたのではないだろうかと考えていたのだ。また、それに対する防備はどの程度のものであったのだろうか…。そんな疑問があったからである。
その回答は、あまりにもあっさりしていて、拍子抜けするような内容であった。
すなわち結論からいえば、そんな危機感など全くなかったようである。隠岐国は本国が考える以上に朝鮮との交流が古くから盛んで、朝鮮からの文化が最も多く入ってきているようである。たとえば、日本語で歌っているとは思えない民謡が隠岐に伝えられているともいう。また朝鮮半島の方角を向いた神社もあるなど、その深いつながりを示す形跡がかなりあるというのだ。
こうした関係から推察するならば、新羅は隠岐国については“敵国”とは考えていなかったのではないか、というのである。
う〜ん、何となく理解もできるが、それならばもっと裏付けがほしいところ。その証拠を実際に見聞することなく、船は出港してしまった。

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