薩摩国分寺                                                          

僧 寺 跡

2002年 12月26日訪問

国分寺にはめずらしい奈良県明日香村の川原寺伽藍配置をみせる

九州でこれだけの復原伽藍模型はめずらしい(川内市歴史資料館蔵)

 発掘調査は早くから行われ、1985(昭和60)年には史跡公園として整備されるに至り、九州の国分寺では初の史跡公園になった。
 1968(昭和43)年からの発掘調査で、南北約130m、東西約118mの区域内に伽藍および関連建造物があったことが判明した。
 伽藍配置は、中門から金堂へと回廊で結ぶところは国分寺では一般的だが、その金堂院のなかに、東塔と西金堂を配するところが大変めずらし。奈良県明日香村にある川原寺と同系になることから、これを“川原寺伽藍”という。全国にある国分寺の伽藍配置としては稀有で、おそらく唯一のものとなろう。


史跡公園の看板から

 創建は奈良時代末期と推定され、全国でも遅れて造られた方になる。また資料からは、肥後の援助もあっての建立とあり、薩摩は当時、それほど豊かでなかったことが伺える。
 その後、平安後期に建て直された記録がある。さらにその400年後は不明で、1587(天正10)年に豊臣秀吉の島津攻略により焼失した。秀吉に燃やされた国分寺は数多いが、創建国分寺からおよそ800年間も寺勢を維持したことになるのはすごい。


航空写真の薩摩伽藍(歴史資料館パンフレットより)


中門基壇の向こうに金堂基壇 その向こうに土塀の復元が見える

南門跡から中門

 中門も従来の常識をくつがえすものがあった。それは、東西の柱は5本で南北が6本と、南北の奥行きの方が厚いのである。そして、中央列の中2本の柱が除かれているので、合計28本の柱が立っている。

 その奥に講堂跡があって、さらにその後方に復原された寺域塀が、小さく見えている。


逆に中門跡から南門跡を見る 南門から西に道路がかすめる

中門から南門

 今度は逆に、中門の階段上から撮ってみた。南門は看板裏面の位置で、中門とはかなり近い位置にある。3分の1ほど道路に削られており、これがまことに残念だ。
 ご覧のとおり、少しだけの高台となっていて、かつては高層建築などなかったので、川内市内すなわち薩摩国府が一望のもとに見渡せた“好地”である。


中門基壇から塔跡(東方向)を見る 塔基壇を囲むように回廊跡
木立の向こうに九州新幹線の高架が見えている

中門後方から塔

 中門の後方から東方向を眺めた塔である。塔には唯一礎石が残され、塔基壇は一辺長が10b、礎石間では5bでかなり小規模だ。寸法から考えると、復元模型や資料館の垂れ幕でも七重塔としているが、知るかぎり一番小さな能登僧寺は、一辺4.5bで五重塔である。台風が多いこの地方の条件も考えると、七重塔とは考えにくく、残念ながら三重塔の説もある。


塔跡基壇から北西方向の金堂跡基壇を見る

塔から金堂

 塔心礎柱穴は直径60cmで、この時も水が溜まっていた。礎石は17個すべて残されている。塔辺の一辺は5mになる。


塔心礎石


中門跡基壇から西金堂跡の眺めだが 道路で分断されている

中門後方から西金堂

 もういちど伽藍配置の航空写真を見てほしい。伽藍の東半分の史跡地は確保されているものの、西半分は道路や民家があり十分な確保はできない状態にあつた。
 とくに、中門と西金堂の間を通過する道路は、狭いうえに交通量も多く気になった。道路向側の芝生の右寄りあたりが西金堂の位置になる。


講堂跡とその向こうの金堂跡基壇を見る 川内市街の中心が見える

講堂跡と金堂

 橋の先の芝生が講堂跡だが基壇や礎石はない。その先の基壇が、金堂跡である。基壇右の植木の列は何かの建物跡、左奥の基壇が塔跡になる。
 金堂跡の復原基壇には完璧なまでの礎石が並んでいるが、残念ながら復原の礎石である。
 それにしても、これまで復原した跡地は、全国国分寺跡のなかでもトップレベルだ。他に伯耆、播磨、紀伊、美濃、能登、信濃、上野、相模、尼寺跡では下野、上総、三河が匹敵するのではないかと思う。


筑前国府瓦文様の復原(文化ふれあい館)


薩摩僧寺出土瓦

 出土瓦は複弁八葉蓮華紋で、大宰府の筑前国府の文様とほぼ一致し、この様式であることがわかる。

 尼寺跡については、手がかりはなく「わが心の国分寺」によれば、「薩摩国分寺文書」には「天養二(1145〜1325)年に存在が明らかであるが、遺跡については不明で東方山麓の天辰廃寺が想定されている」とある。
 
※天養二=1145年か?(平安期末になる)

 岩永蓮代女史納の「金光明四天王護国之寺」碑が、金堂の西に伸びる回廊の脇にあった。
 岩永氏については、播磨国分寺のページ、尼寺の項参照。


石造多層塔

 僧寺跡から北西におよそ400b程の場所に、石塔の残存と寺跡表示を発見した。
 というのも、僧寺跡を見学するために駐車場所を探し、その周囲を走らせていた。すると、興味深そうな神社があったので立ち寄ってみたくなった。気ままに降りて、菅原神社という大宰府天満宮系の社を見ていたところ、その向かい側にある崩れかけた石塔を発見したのである。
 ふらふらと近づいて石碑の文字を読み説明板を見て驚き、慌てて車に立ち戻りデジカメを持って再び駆け寄ったのだ。もちろん、これに関する資料を読んだわけでもなく、思ってもみなかったことでもあり、自分だけの発見のようでとても嬉かった。私もおそらく、前日に大隅の多層塔を見学していなかったら、この石そのものにも関心を持つことはなかったであろうと思われる。


「国分寺址」を表示する石碑


薩摩僧寺跡の石造多層塔

 薩摩の石造多層塔(上画像)は、創建国分寺の時代のもので、様式から平安時代の作とだけ記されており、平安時代400年間のいつごろであるかをとくに知りたいところである。脇にある説明板には「いずれもその一部が不足し、かつ乱積みであるので、果たして何層であったのかは不明」とあった。昭和60年、市指定の文化財となっている。


大隈僧寺跡の石造多層塔

 そして、多層塔の脇に「国分寺址」の碑があった(左上画像)。碑の裏を見ると「大正三年四月八日東水引村」と記されてあった。
 その場所は、僧寺伽藍からおよそ400b北西に離れているのに、その場所にあるというのはどうしたものだろうか。まさか石塔そのものを移動したとも思えない。あるいは、歳月を経ているうちに民家によって分断されたとすれば、きわめて大きな寺域を持つことになるだろう。まさに、武蔵国分寺(東西約356b南北約428b)並の広さということになる。そのどちらだろうか。

 さて、大隅の塔と比較をしてみたい。大隅の多層塔(左画像)は、1141(康治元)年と記されており、平安末期の建立であるという。
 
大隅の塔は、本体が太く屋根が薄小で大陸的な味わいがある。それに比べ薩摩の塔は、本体が細く屋根が厚く、その傾斜に曲線を入れているところなどは日本的な味わいを感じさせる。いずれにせよ、同じ頃の作にして様式のちがいの不思議さと、味わいのちがいの楽しさがある。


 それにつけても、豊臣秀吉がこんな南九州の奥まで島津さんを侵攻しに来たとはすごいことだ。国分寺の天敵、すなわち火付け魔のトップである秀吉だが、鎮西町の名護屋城から朝鮮出兵を目論んだ者としては、この位のことは朝飯前のことかもしれない。
 話題は変わるが、これだけの街なかで遺跡がよく残されたと思う。宅地化される以前の大正期から、地域住民の熱心な保存への声が高かったからこそであると考え、保存に尽くされた方々に敬意を表したい。

川内市歴史資料館のホームページ
http://rekishi.sendai-net.jp