但馬国分寺
僧 寺 跡
2002年8月15日訪問
“但馬”というと、すぐに思い浮かぶのが“但馬牛”ということになる。食いしん坊の発想だ。但馬の国は、兵庫県の北部に位置し山間に囲まれているため、平地すなわち田んぼが少なく、その狭い田んぼを耕すために使った牛が食用に繋がったのだろうか、よくわからないけれどそんなところだろう。
アラスカのマッキンリー登頂のあと行方不明となった、あの植村直巳さんの生まれ故郷は日高町だったようで「植村直巳冒険記念館」があった。私もかつて、西田敏行さんが演じた映画を見たことがあった。
さて、国分寺の話題に入ろう。
僧寺については「わが心の国分寺」によると、「創建の記録はないが、天平勝宝8年(756)の道場具領下があって、丹波、丹後国分寺と同時に完成したと思われる」と書いてある。
そしてさらに「宝亀8年(777)には落雷で塔が破損」、「全国ではじめて出土した木簡から、神護景運年間にはなお主要伽藍は存在」、「天正5年(1577)秀吉軍の但馬征伐で兵火により廃滅」とあり、そして「慶長元年(1648)に山田屋専西が旧寺域の北方に寺地を寄進して再建(現存寺)」とあった。
それにしても、同時に建てられたとされている丹波も、丹後も僧寺跡がよく残されているが、但馬だけはかなり残念な状態になっていた。山陰本線の江原駅から僅か300b
と近く、それに日高町役場と駅の間に挟まれているという条件のもとでは、宅地化も早く進んでしまったのだろうか。
伽藍配置図
このように、画像と文で位置関係を示す手法は、寺跡のレポートでは、伽藍の広さや配置、そして保存状態を知る手がかりとして有効ではある。
しかし、ここ但馬のレポートでは、このように、ただ町並ばかりを見せる結果になってしまった。
伽藍のほとんどが私有地になっていたことは残念である。
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どこの僧寺跡でもいえることだが、伽藍が失われる時には、必ず道ができて伽藍を分断していく。その道のできかたは様々だが、堂塔の位置関係にしたがってつくられていくものなので、これも興味深いものがある。
伽藍配置は、西塔を配する国分寺式になるが、塔がずいぶん北に位置しているところがめずらしい。 |
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@南門の位置から
はじめから意識して撮ったわけではないが、中央のこんもりとした山が、どの画像の背景にも映し出されているので、位置関係を知る手がかりになるだろう。
南門跡は、手前の電柱の背後付近になるだろうか。伽藍図からも、ほとんどは道路に削られたようだ。
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A中門の位置から
@画像の、左の小径を進み二本目の電柱手前になる。
右に黒く小さな中門跡を示す立て札があった。
中門跡地は、立て札の背後になるので、右向きで立て札を入れて撮せば跡全景か写るのだが、それでは意味のある被写体が何もなく、絵にならないので、仕方なく立て札と道路を撮った。
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B西辺の回廊跡から
A画像の左側道路脇の草むらを入っていったところに回廊跡表示がある。太陽熱温水器を取り付けた民家が二軒写っているが、その左側の家がこの画像にもあるので、位置関係が確かめられる。
この回廊跡は、南北にのびる西辺にあたる部分である。
それでも、こうして部分的ではあるが、用地を確保して表示している場所は三ヶ所あるので良かったと思う。
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C金堂跡を撮す
A画像の「一旦停止」標識を右に曲がるとある。この道は金堂の南側を東西に横切る通路が道になったものであるだろう。
ここも用地は確保してある様子で嬉しいが、実際の金堂跡は、もっと東西に大きいと推測される。
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D塔跡を撮す
塔跡には、塔心礎石一つだけしか残っていなかったが、用地はおよそ50坪程度確保してあり、表示板も大きかった。
発掘調査の結果では、基壇の一辺が16b
になるという。こ大きさからすると、七重塔が建てられていた可能性が大きいようだ。
但馬僧寺から判明した国分寺式伽藍配置の場合、ふつうでは、塔は中門の東西の延長線と同じ位置であったり、やや南になることが多いが、ここでは金堂の線上となっていて、かなに北に位置しているのでめずらしい。
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現 存 寺
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山を背後にして、創建僧寺の北端に建てられていた。左画像をまっすぐ前進し右手にお堂がある。
先ほど述べたが、慶長元年(1648)に山田屋専西が旧寺域の北方に寺地を寄進して再建されたものであるという。 寺号を護国山但馬国分寺と称し、宗旨は浄土宗となっている。本尊は平安後期の作の薬師如来(坐像)で、町の指定文化財になっている。
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本堂となる薬師堂 背景もすばらしい
尼 寺 跡
はじめの伽藍配置図と南門跡画像を見てほしい。
右側の2車線ある道を、およそ1000b
北に行くと左手に、日高町立東中学校の入口がある。そこを入ると右手に、下画像の尼寺跡があった。

尼寺跡を示す石碑と表示板 石碑の下に塔心礎石がある(下画像
塔心礎石)
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ただし、その尼寺跡はまだ“推定跡地”のようだが、尼寺にはめずらしい塔心礎石があり、これ一つだけが残されていた。 1814(文化11)年、伊能忠敬がここを通ったときに、「尼寺の柱礎七つあり」と記録したようだが、あるのは、これ一つだ。但馬尼寺について、判明していることはこれだけのようである。
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城崎温泉
(きのさきおんせん)
但馬国分寺跡から北へおよそ4q行くと日高町国府となり、そこから円山川に沿ってさらに北上する。豊岡市に出ると、潮の満ち引きを感じさせる広い川幅となり、その円山川を10q下ると城崎温泉に着く。
温泉好きだが、温泉の由緒まで調べる気持ちはないのでわからないが、外湯が有名で歴史ある温泉のようだ。ちょっと明治の風情が漂っているので一枚撮ってみた。 ここに一泊した。
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