対馬国分寺
僧 寺 跡
2003年3月30日訪問
対馬は、わが国では三番目に大きい島で面積も広いのだが、山や湾の入江が多く平野はきわめて少ない。そのため平地は、時代とともにくり返し転用されるため、1200年前のものなどは残りにくい。
たとえば、僧寺跡には金石城が建てられて、現在、そのお城の方の復元がすすめられているところであり、僧寺跡などは最も古い時代のものなので顧みられることもなく、まったく跡形もなくなっている。また、国府跡には町役場が建てられており、何とも時代・歴史を感じさせるものがあった。
下の画像は、北側の城壁上から南を向けて撮ったもので、伽藍配置も不明だが、とにかくこのあたりに僧寺があったということで見てほしい。
かつての国分寺跡になる金石城趾

工事は僧寺跡の発掘調査ではなく
金石城の心字池の復元作業である 同じ場所なのに…
町役場は左側の鉄筋建物 その左手前に金石城の門が小さく見えている

金石(かねいし)屋形(城)門とみごとに残る城壁
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今さら説明するまでもないが、聖武天皇の詔(741)により、「金光明四天王護国之寺」および「法華滅罪之寺」を国ごとに造らせたが、これが通称「国分寺」・「国分尼寺」と呼ばれる。
ただし、対馬と壱岐と種子は大宝律令(701)により、すでに国を「島」(とう)と改められていたので、「島分寺」(とうぶんじ)といっていた。のちに種子は大隅に合併されたが、対馬の造寺は進まず、島分寺に講師が置かれたのは855(斉衡2)年だったという。その後、室町時代に対馬国となったため、国分寺と改称された。
(対馬歴史観光=永留久恵著より) |
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金石屋形は、島主の宗将盛城の居城として建てられたが、1665(寛文5)に増築のさい、国分寺は厳原の街の奥になる日吉に移された。日吉は現在は住宅地のため、その位置すらつかめない。
金石屋形には、天守閣はなかった。左画像がその城内になるが、この画像の山を背景にするあたりに、創建の僧寺があった。桜の花があまりにもきれいだったので、ついこの構図で撮ってみたくなったのだ。 |
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画像背後の左手に
万松院の門がある
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ここは、もと中学校だったというから、国分寺→金石城→中学校→公園、という具合に、時代とともに使い回しされているわけだ。

金石城主である宗家の菩提寺となる万松院
左画像の橋手前
正面となる位置にある
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現 存 寺

朝日が背後から出たところの現存寺山門
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1683(天和3)年
になってから、日吉から港にやや近い、現在の位置に移されたのが現存国分寺だ。
現存寺は天徳山国分寺と称し、宗旨は対馬藩主の宗家の菩提寺だった頃から、曹洞宗として現在も変わらない。
山門は、対馬随一の四脚門で、1807(文化4)年の建立になる。徳川家斉の将軍襲職を祝う朝鮮通信史の聘礼式が、対馬府中で挙行されることとなった。
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山門を入ると左手に楼門 その奥には新築された本堂がある
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このため、国分寺に客館を新築し、その時に建てられたものである。客館は明治に解体され、本堂は大正時代の火災で焼失した。
山門は辛うじて焼失を免れ、町指定の文化財として大切に保存されている。
本堂正面に掛かる寺号の額
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国 府 跡

対馬国府跡に建つ現在の国庁
いや町役場
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対馬歴史民俗資料館の係員の方に聞いたのだが「国府跡は町のどの辺になりますか」と訪ねたところ「ちょうど厳原町役場の位置が国府跡ですよ」という答えがかえってきた。
私は思わず苦笑してしまったのだが、まことにわかりやすい。平地が少ないのでまさに“再利用”である。
厳原町は、現在も対馬で一番大きな港町となっている。 |
この厳原(いづはら)の地に国府が置かれる以前、この地を与良(やら=よら)と呼んでいたようである。国府が置かれたのは、白鳳時代とする説があるようだが確かではない。国司がいたことを示す資料は『日本書紀』の天智天皇十年(671)に、唐使が来るという予報を対馬国司より太宰府に言上したという記録があり、そこから白鳳時代とする説の根拠になっている。
対馬は朝鮮半島に最も近く、朝鮮諸国の政治的変動の情勢をまともに受けるため、国内諸国に先んじて国司が置かれていたようである。
こうして“与良”の地名は、“府中”にとって代わり、対馬府中を略し“対府”(たいふ)とも呼ばれるようになった。そして、明治維新になってから厳原となった。
とにかく、対馬は朝鮮に近いためか、独特の文化を持っている表れであろう。地名が読めないし、地名に込められている意味がわからない。列挙するほど覚えていないので、一例だけ…。豆酘(つつ)
対馬にお住まいの方、できたらメール下さい。「けち」という地名もありましたね。漢字は忘れましたが…。
民家の物置小屋からも
朝鮮半島の文化の香りがする
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ハングル文字でも書かれていて
朝鮮半島が近いことを実感できる
私が対馬を訪れた時は土・日の連休のはずだが、日本人観光客はまばらで、むしろ韓国からの観光客の方が多かった。
それもそのはず、博多より釜山の方が近いという。だから、白村江の戦いで新羅にもしも占領されていたら…、と考えると、日本の領土で安堵した。
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これより余談 観光名所
お船屋跡

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厳原の同じ湾内の西になるが、久田浦という所に五基の船着場がある。対馬藩のお船屋の跡である。現在の遺構は1663(寛文3)年の造成といわれている。築堤の石積みは当時の原形を保っており、340年も前の港の遺構などは、全国でもまことにめずらしい。
石垣の町並
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町役場近くの通りを撮す
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町並保存の地域として指定されているかどうかもわからないが、厳原の町はこうした町並が多くあって美しい。
家の周囲に石垣を築く造り方は、沖縄を含めた南国の島々には多く見られる。
ただし、対馬の町並の特徴は、正確に長方形に割ることができる表面はうす茶色で中は白い粘板岩が産出されるためか、石積みの色もかたちもひときわ美しものだった。
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